音楽療法における共時性の追求-1-

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音楽療法コラム -Ⅴ-

音楽療法における共時性の追求(1)

~ひろちゃんと亀~


思いがけない偶然が重なって、対象の新しい心の扉が一気に開く…

そんな、セラピストにとって至高のともいえるセッションを、私はこれまでに何度か経験してきました。
そのたびに、夜も眠れないほどの興奮を覚え、また、その体験が一度や二度ではなかったからこそ、この仕事への強い想いを支えてきた、と言っても過言ではありません。

以来、このテーマ、「音楽療法における共時性の追求」は、私の生涯テーマにもなりました。

「共時性」とは、いうまでもなく、スイスのカール・グスタフ・ユング(1875~1961)が半世紀以上も前に発表した、「意味のある偶然の一致」という理論です。
私の音楽療法では、こうしたことが起こることはそれほど稀ではありませんが、中でも感動の大きなエピソード、というのはあります。

ここでは、2012年5月23日に起きたひろちゃんのエピソードをご紹介してこのお話を進めましょう。

この日は、運動会準備期間のせいか、ひろちゃんはちょっと神経質になっているらしかったのですが、「だいじょうぶ?」と訊けば、お母さんの顔をチラ見して苦笑する事ができました。

小学校最後の運動会になるので、組体操の事を訊いてみたところ、ちょうど、その週末開催予定の運動会の組体操が、今のひろちゃんの興味の中心になっていたようだったのですが、その中の4つの「一人技」、

片手バランス、 肩倒立、 V字バランス、 ブリッジ

のうち、ブリッジができないこどもたちは、両手を頭上で返して床につけるのではなく、「亀」と言って、肩の下で両手を返さずに床につけて、背中と腰を上げる姿勢を取るのだそうで、ひろちゃんも、ブリッジだともう一息頭を持ち上げられないため、亀を選んだらしいのでした。

これが、「亀」というキーワードがもたらした、第一の偶然でした。

セッションではメロディーを作れるようになって来たので、そのセンスを生かして、ひろちゃんから即興モチーフを先行してもらうようになって以来、リコーダーの即興も目に見えて質が上がり、掛け合いに入る私と、カノンやTuttiがぴたりと合致したりする事が増えていました。

そしてこの事が、その日のセッションを導きだす鍵を握っていたのです。

もっと小さい頃から、ひろちゃんは、言葉の語呂合わせ遊びが好きで、いつも取り入れている「今日は何の日」をきっかけにしたメロディー作りの活動では、語呂合わせの好いのがない日には、ひろちゃんが語呂合わせを考えて「今日はなんの日」を創作してくれます。

この日も創作しようとしてくれたのですが、上手いのを思いつかなそうだったので、語呂合わせではありませんでしたが、ネットで調べておいた「世界亀の日」を提案すると、すんなり受け入れてくれたのでした。

そう、その日、5月23日は、「世界亀の日」(World Turtle Day)というのだそうでした。
American Tortoise Rescueが2000年に制定し、亀について知り、亀に敬意を払い、亀の生存と繁栄のための人間の手助けをする日、それが、「世界亀の日」なのだそうです。

これが、「亀」という素材がもたらした第二の偶然でした。

第一の「亀」は、もうすぐ開催されるひろちゃんの小学校最後の運動会の話題から偶然出ました。
そして、第二の「亀」は、今回のセッションのために私が計画したプログラムの中に偶然登場しました。
第二の「亀」は、セッションが昨日でも明日でも登場しなかったのです。

テーマが決まると、いつも私がその場で簡単な歌詞を創作します。
この時は、ひろちゃんから組体操の一人技種目だけ聞いて、次のような歌詞を作りました。


〔亀のブリッジ〕

亀はブリッジ ムリムリー
ブリッジできなきゃ カメカメー
肩倒立に 片手バランス
V字が決まれば 亀じゃなーい!


それから、ひろちゃんにメロディーを作ってもらうに当たって、「亀には甲羅があるからV字はムリだよね」、と話しながら、計画には特になかったことでしたが、音楽室にある割りとリアルな亀のハンド・パペットを出して来て、亀にブリッジやV字バランスは本当にできないのかどうか、一緒にシミュレーションを始めたのでした。
すると、ここのところ大真面目にさまざまなプログラムに果敢に取り組んでいることが多かったひろちゃんが、久しぶりにケラケラと声を立てて笑い転げたのでした。

これが、「亀」がもたらした、第三の偶然でした。

もしも組体操の「亀」の話がなければ、仮に亀のハンド・パペットは出してきたとしても、お人形の亀にV字バランスをさせてみたりはしなかったでしょう。

さて、パペットにはいろいろあって、出したついでに亀の他にひろちゃんが注目したのは、「はらぺこあおむし」のパペットでした。

私とコ・セラピストも、意外とこのあおむし、可愛いというより気持ち悪い、と感じていたので、ひろちゃんにその気持ちを伝えてみると、どうやら、ひろちゃんの男の子らしい遊び心に初めて火がついたらしかったのです。

私よりひろちゃんに年の近いコ・セラピストを亀にして、あおむしで「気持ち悪い攻撃」を開始するひろちゃん。

手指を亀パペットに入れ、首を横に振らせて「やだやだやだやだ」と言ってみせるコ・セラピストの様子が気に入って、もっと「やだやだ」を言わせようと、何度もあおむしを亀に乗っけてみせました。

そこで今度は、プログラムにはなかったのですが、あおむしを浦島太郎に見立てて、あの昔の童謡、「浦島太郎」を歌って聞かせて、物語を教えてみました。

♪ むっかしーむっかしーうーらしーまはーー 
 助けた亀に連れられて 竜宮城へ行ってみれば
 絵にも描けない美しさ…

そしてさらに次は、プログラム通り、♪恋してうみがめ というNHKのこどもの歌を、二人の「やだやだ」物語のBGMとして弾き語りしていたところ、なんとひろちゃんは、声も立てずに涙を流し始めたのでした。

♪恋してうみがめ という歌は、うみがめの産卵シーンを題材にした歌で、痛い思いをして一生懸命卵を産み落とすうみがめの、“卵”への恋が、ちょっぴり切なく、静かに、抒情的に歌われます。

その歌を聞きながら、声を出して泣くのではなく、溢れ出る涙を何とか隠そうとハンカチでぬぐいながら、それでもパペットで遊ぶのを止めないひろちゃんの姿がそこにありました。

これまでは、情緒的な歌に涙してしまうひろちゃんが可哀想になって、慰めたり、演奏を中止したりすることが多かったのですが、この時は、あおむしに扮するのを止めようとしないひろちゃんの方に気を取られ、はじめは泣き出したのに気づかなかったもので、結果的に初めて、彼の涙を見て見ぬ振りをすることになりました。
コ・セラピストも、ひろちゃんが、彼女から涙を隠そう隠そうとしているのが痛いほど分かった、と報告しています。

すると二度に渡って涙を流しながら、ひろちゃんはついにそこから逃げ出す事なく、涙を拭いてはまた笑いながら遊び続け、ナーヴァスにもならずに、いわば涙を放置することに成功したのでした。

曲が終わった後も、涙を拭いながら、遊びの続きをしたがるひろちゃん、いつも終了間際に行う、バイエルを弾くプログラムをどうするかと思ったら、そこはひろちゃん、さっと切り替えてこなしてくれましたが、「じゃ、後でお話(セラピストとお母さんとの懇談)の時、また続きしよう」とコ・セラピストに申し込んでいました。

ひろちゃんは、単なる質疑応答的な情報交換はしっかりとできるようになっていましたが、遊びなど、創造性が必要なこうしたやりとりの場面で相互性のあるコミュニケーションを取れるのは、これまで、音楽している時だけでした。

リコーダーで即興で掛け合いをする時には、だいぶ、私のしそうなことを読んでくれている演奏ができるようになっていましたし、作曲活動では、作ってみて、私に再現してもらってみて、明らかにつながりが非音楽的な時には、「ちょっと待って、違う!」と修正することができるようになっていたのです。

でも、あとで、小さい頃からのひろちゃんを知る工房のチーフ・セラピストがこの話を聞いて驚いたくらい、ひろちゃんが、ぬいぐるみなどを使って「ごっこ遊び」をする、というのは、想像しにくいことだったのです。

さらに、ひろちゃんは、コ・セラピストが、何か相談しようとするように、「ねえねえひろちゃん」と、お姉ちゃんか同級生の女の子のお友達のように話しかけるのが気に入って、自分でもこのセリフを繰り返してはクスッと笑っていました。もっと言って、と催促するかのように。彼女と遊ぶのが本当に楽しかったのです。

互いに対等なやりとりが必要なレベルの「ごっこ遊び」は、一人遊びの「見立て遊び」と違って、相手との間に、物事の前提となるべきいくつもの「暗黙の了解」がないと成立しません。そしてそれは、たとえば、現実には亀だったらブリッジはできないことは判っている、ということであったり、それ以前に亀は人間ではない、とか、こんな時、亀なら本当はこうはしない、とか、亀は話さない、とかといった、現実と架空の境目に特に多く存在します。
それから、遊びの手法は鬼ごっこなのか、かくれんぼなのか、どっちが強くてどっちが弱いのか、「善い者」はどっちで「悪者」はどっちか、など、いわばゲームのルールのようなものですが、こうしたものが、相手にも自分にも解るものでなくてはならないわけです。

しかも、勝負が絡むゲームでなく、ごっこ遊びをするこどもたちの場合、そうしたルールを、遊び出す前に言語化して確認してから、というようなことはほとんどしません。いつも突然遊び出し、条理も不条理も重点なく突然ルールが成立し、そのルールは遊びながらどんどん変化していくような曖昧で信頼性のないものなのに、それでも楽しくてやめられないと思える、という遊び方です。おそらくそこに、こどもたちは創造的なエネルギーを注ぎ込んでいます。そしてさらに、大抵そのルールは次回また同じ相手と一緒に遊ぶ時には、より強い「暗黙の了解」になっているのです。

一方、自閉症スペクトラムのこどもたちは、「見立て遊び」は、割と早くからできるようになる子がかなりいるのですが、何に見立てているのかがこちらにも分かるレベルの見立て遊びになると、誰か相手をする大人がきっかけを作らないと始められない事が多い割りに、一人遊びに終始してしまいがちで、ひろちゃんのように、相手の反応を楽しみ、これを何度も引き出そうとするような相互性の高い遊び方にはなかなかならないことが多いと思います。

つまり、彼らが頭の中で展開する空想世界が、現実的なシステムの後ろ盾=共通の「暗黙の了解」事項を持たない、自分勝手で他者とは共有しづらい内容であるために、セラピストが入り込んで一緒に遊ぼうとすると、邪魔にしかならなくなってしまうのです。
ただし、これもまた、非常に重要な段階です。こどもたちは、そうした自分だけの世界に入り込んだ「見立て遊び」の中でも、実はいろいろなネガティブなエネルギーを発散しているものだからです。
また、幼稚園児くらいだと、通常発達のこどもたちなどは、お友達とのごっこ遊びにも、こうしたそれぞれがひとりよがりな自分の世界を勝手に持ち込んで、まるっきりパラレル・ワールドのように見えるのに、一緒に遊んでいるつもりになっていて、非常に攻撃的・あるいは破壊的なエネルギーをその中に注ぎ込んでいます。
それが、自閉症スペクトラムのこどもたちになると、なかなか相手あっての遊びの中では、そうした発散ができないのです。そうするには、あまりにも心が繊細なのです。

でも、相手と世界を共有することができる「ごっこ遊び」は、コミュニケーションというスキルが、相手あっての、ひいてはさまざまな人々で構成されている世界があっての、相互的なものに成長していくためには、きっと必ず通らなくてはならない、自閉性のあるこどもたちにとっての重要な関門ではないかと思うのです。

ひろちゃんの場合、分数もできる、複雑でなければ楽譜も読めるなど、学習理解力が高いにも関わらず、これまでまったくこうしたごっこ遊びが見られませんでした。
そして、初めて相互に成立した「ごっこ遊び」が、このように高い相互共有性、共感性を発揮したのです。

一方、情動性の強い楽曲の演奏が始まると、泣いてしまったり、とても不快そうな表情で怒ったように乱暴な音を出したりして嫌そうにするので、流行りのJ-POPのちょっとイイ曲などを共有することも、これまでできませんでした。

つまり、繊細な心の持ち主でもあり、相手がいることを無視できないだけの理性が育っているひろちゃんには、相手あっての「ごっこ遊び」なら、これくらい相互に世界を交え、対等にその遊び心を享受できるようなプラットフォームが成立しないと、楽しめなかったのかもしれないのです。

もちろん、まだ楽曲の志向性においても、情緒的な楽曲を聞いてストレートに共感し合えるところまで来たとは思っていませんが、少なくとも、思いがけなく心を揺り動かされることを、受け入れることができた日でもあったのではないか、という期待が湧きました。

お母さんと、これらの出来事を、驚きを隠せない、という思いで喜び合いながら、これまでの長い年月に、ゆっくりと彼の心の開放を願って行ってきた「音楽する力を育てる」ことの意味が、いま、ひとつの、誰にでも解る結果を出してくれたのではないか、と信じることができたのでした。

ちなみにひろちゃんは、その後の運動会本番では、組体操のブリッジを、「亀」ではなく、本当のブリッジで達成しました。ぶっつけ本番だったそうです。(拍手)


さて、ここでもう一度改めて「音楽療法における共時性」について考えてみるにあたって、この記事をブログにご紹介した折にコメントをいただいたA氏との対談を綴ってみたいと思います。
ご本人には、快くご承諾をいただきました。
その内容は、次のコラムにて。

つづく

※ここに登場するこどもたちのエピソードについては、そのニックネームとともに、お母さま、お父さま方のご承諾をいただいてご紹介しています。

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