差働する建築の諸相 − 序奏として

PODA代表: 田村 秀規

〈持続〉
「音楽」は音程や拍子といった不連続な「程度の差異」の集合体ではない。日常的な経験の相に即していえば、音楽をメロディやリズムのような「一つの連続的な音の流れ」として聴取することは、音楽的な質を感受する上で不可欠な前提であることに気づく。このような時間の流れはH.Bergsonにより〈持続(duration) 〉と呼ばれたが、持続とはそれ以上バラバラにすると変質もしくは消失してしまうような一つの時間的なユニットでもある(「私はドよりもミの音質の方が好きだ」などと誰がいうだろう)。音の持続は不可視ゆえ、不確定ではかないものに思われるかもしれないが、実際は私たちの日常生活の様々なシーンで喜びや悲しみの感情を引き起こしたり、時には前触れもなく鼻歌として反復的に回帰してきたりと、意識的には制御不可能なある種の強度を秘めた存在である。持続はそのような身体的様相として「現働化(actualize)」する一方、「潜在的(virtual)な−G.Deleuze」次元において、〈私〉自身を「差異化(differentiate)」する根拠として要請される。

〈表現〉

持続としての「音楽」は、聴取を通じて私たちに生き生きとした変化をもたらすが(「聴き飽きた」とはその飽和状態ともいえよう)、一方で作曲家にとっては「楽譜」の発生根拠たる「潜在的なもの」でもある。その意味で音の持続は、「性質の(質的)差異」を生む《聴取》のベクトルと、楽譜上の「程度の差異」を生む《作曲》のベクトルに分化(=差異化)するといえよう。そして《演奏》はといえば、「程度の差異」から〈持続〉へと逆行するベクトルと仮定されるが、「程度の差異」から差異の「根拠」である筈の〈持続〉が、生み出されるという一種の飛躍がここにはある。これが「反-実現(counter-effectuation)−G.Deleuze」の力であり、持続を「脱-根拠化」する「創造的な」ベクトルである。つまり《作曲↓》と《演奏↑》、或いは《聴取↓》と《演奏↑》は同じ線上を逆行するのではなく、下降と上昇の異なる線を辿るという意味で「創造的」になり得るのである。よって「現働化」、「反-実現」という2つのベクトルの「あいだの差異」が〈表現(expression) 〉としての「質」を生む。

〈建築〉

「音楽」を引きつつ、ここまで駆け足で素描してきた目的は、前述の先駆者たちにより「進化論」、「映画論」を経て発展してきた〈差異の概念〉の要約にあるのでは勿論なく、〈建築〉にとって「未だ現働化されざる問い」を立ち上げることにある。〈建築〉においては〈差異の概念〉を軸とした論考をほとんど目にしたことがなく、その点で「音楽」を引用した方が経験的にも理解し易いだろうと考えた。従って、本稿は、「音楽」というよりは、〈差働する建築〉なるものの「適用と形成のための序奏」として、「反-実現」的に読み替えていただくことを願いたい。また、音楽、建築、映画、料理…を問わず、共通していえるのだが、〈差異の概念〉が「表現の運動」として作用するには、「この」建築、「あの」建築といった「微細な差異(nuance)」こそ見逃されるべきではないだろう。その意味で今は建築の実践を通して、「差働する建築(differential architecture)」の諸相に直接触れていくことが必要であると考えている。