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書評:マテ-ブランコ著 岡達治訳 『無意識の思考』
福本 修
本書は、チリ出身の精神分析者イグナチオ・マッテ-ブランコIgnacio Matte-Blanco(1908-1995)がその仕事をまとめた二冊目の著書、“Thinking, Feeling, and Being. Clinical reflections on the fundamental antinomy of human beings and world”(1988)の全訳である。1950年代半ばに遡られる本書の主題は、彼の最初の著作“The Unconscious as Infinite Sets: An Essay in Bi-Logic”(1975)を発展させている。
先に著者について、『国際精神分析誌』に掲載された死亡記事から若干の紹介をしよう。彼はチリ大学の医学部を卒業後、20代半ばでイギリスに渡って精神医学・精神分析の研修を数年行ない、1938年には英国精神分析協会の会員となった。それからアメリカでの勤務を経て、36才で帰国、41才からチリ大医学部精神科教授としてチリおよび南米で活躍したという。しかし、彼が訓練分析を一手に引き受けつつ管理者・指導者でもあり続けたことは、さまざまな問題をもたらしたようである。最終的に彼は58才でイタリアに移住し、以後チリに戻ることなくヨーロッパで臨床・教育・研究・執筆などの活動をした。チリ本国の弟子筋たちは沈黙を守り、孫弟子の世代に至って、彼の仕事への関心が甦った。
英語圏でも、本書の出版以後筆者の知る限りでもThe International Review of Psycho-Analysis(vol.17, part 4, 1990)およびJournal of Melanie Klein and Object Relations(vol.15, No.4, December 1997; vol.16, No.1, March 1998)で彼が特集され、Raynerは彼の仕事を紹介するモノグラフをThe New Library of Psychoanalysisシリーズに寄せている(Rayner, E: Unconscious Logic. An Introduction to Matte Blanco’s Bi-logic and Its Uses, 1995)。また、PEP Archive 1 version 4以降のCD-ROMには本書の全文が収録されており、諸概念の検索に大変便利である。
翻って我が国では、1992年に妙木浩之氏が数学の集合論を参照しつつ紹介した他は、論文の邦訳が一編雑誌掲載された(1996)のみだった。それが近年、或る著作家が彼の二重論理bi-logicを「思考のミッシング・リンク」として称賛したことを契機に、マッテ-ブランコは一部で俄に知られるようになった。本書については、小説家の高橋源一郎もホームページで言及しているほどである(読み終えた形跡はないが)。
次に内容を見よう。数学および論理の標榜によって難解に見えるが、彼の着目する無意識系の特徴とその一種の公理は意外なほど単純で、ほんの幾つかから成り立っている。但し、見掛けが単純でも快感原則と現実原則のように、演繹されることはさまざまである。ごく要点のみ述べると、第一に、一般化原理と呼ばれるものがある。その趣旨の一つは、無意識が個体を集合論の規則に基づいて分類していることの確認である。言い換えれば、無意識の論理に特殊なものはなく、その骨格は通常の命題論理(アリストテレスの二価論理:Aならばnot Aではない)に従う。もう一つは、無意識が持つ対象への関心が、「このこれ」という個体を同定する方向ではなく、クラス(性質)の方向にあることである。「悪い乳房」「良い対象」などは、特定の個体ではなく理念やイメージとして志向されている。
第二は、対称性原理と呼ばれるものである。無意識は、本来非対称的な関係を対称であるかのように扱う。例えば、「ピーターはジョンの父親である」は非対称的な関係なので、二項を入れ替えたとき正しいのは「ジョンはピーターの息子である」である。だが無意識においては、「ジョンはピーターの父親である」も等しく成立する。確かに、内的な対象関係はあくまで配座であって、親と子や加害者と被害者が入れ替わることは珍しくない。
この対称的関係は、部分と全体を等価として扱っている。その典型例は、述語的同一視(いわゆるフォン・ドマルスの論理)である。集合論はここでも関与する。例えば「ソクラテスは人間である」「私は人間である」「よって私はソクラテスである」という推論が通常の命題論理で正しいためには、「人間はソクラテスに等しい」必要がある。これは、全体が部分に等しいということである。マッテ-ブランコの主張の一つは、それが統合失調症に特有の異常ではなくて、無意識の思考および感情そのものだということである。フロイトは無意識の特徴を五つ取り出した(矛盾と否定の不在・移動・圧縮・無時間性・外的現実の内的現実による置き換え)。マッテ‐ブランコは更に八つの特徴を加え、そこに一貫する構造を見出した。それをよく表現するのが、数論に現れる無限集合の関係である。自然数のように無限の要素を持つ集合では、その部分例えば偶数と全体を比較しても一対一対応が可能で、両者は同じ濃度である。そのアナロジーで、さまざまな感情は心という集合の要素として考えられる。感情は愛情と憎悪を代表として、さまざまな種類からなる。その意味では憎悪は感情全体の一部分である。しかし、あれも憎いこれも憎いと数え上げ始めて、その要素が無限に存在するならば、結局心を充満して全体と等しくなる。これは対称的論理である。部分対象という存在も、それに関わっている当人にとっては全体に等しい点で、対称性原理に従っている。クラインが描出した世界はこのような関係に満ちている。
こうして彼は、抑圧とは別の経路から無意識について考察し、独特の構造を認めた。本能・欲動の衝動性は、彼の構想では情動の無限性という概念に取って代わられている。
彼の例で確認しよう。或る哲学の学生との分析治療で、週の「四日目」のセッションをいつに設定するかが問題となった(原書p.74, 訳書p.88)。彼は最初、患者に不都合な早朝しかできない現実的な事情を伝えたが、患者は全く納得せず、両親への不満と同じものを治療者に向けて、他の患者を贔屓していると非難した。治療者は彼の推論の誤りを指摘し、自分の仕事や他の患者のスケジュールをすべて開示するのは「明らかに論外」なので、これ以上説明をするつもりはないと伝えた。「患者は数週間、怒りと非難、落ち込みを続けて、私[治療者]が直観的に、これ以上は彼の治療の役に立たず逆に妨害となると感じるほどになった。彼は、彼の人生の或る時期の再体験から抜け出せず、それが[洞察に]都合よいと思われる以上の長さになっていた」。そこで治療者は改めて、実際面を考慮しつつ新しい時間を見つけられるか調べてみる、但し実現できる保証はないと伝えた。すると患者の態度は変わり、治療者の関わりを現実的に認識できるようになった。
これは転移に典型的で、感情の励起によって対象が一色で染められ、両親と治療者が述語的に同一視されたことを示している。合理的な思考(非対称的論理)はこうした推論を行なわないが、日常経験の中にも対称的論理は或る程度混ざる。だから人間の経験は基本的に二重論理的bi-logicalである。マッテ-ブランコは、対称性の強さに応じた層的な構造を想定する。最深層は、あらゆるものが他のものに等しく不可分indivisibleな、思考、感情、そして存在(Thinking, Feeling, and Being――原題の由来)の、極限状態である。彼はこの二重論理構造のさまざまな形式(アラシ・シマジ・トリディム・・・)を見分け、二重論理によって精神分析的な諸力動を考察している。
第三は、公理と言うより予想で、心の次元性に関する問いである。身体-物理的な類推から、一般に心は三次元空間に喩えられることが多い。彼はそれを抽象化し、より高次の多元的構造を想定して更に多くの現象を説明しようとする。例えば、内的−外的は対立しているのに、対象が心の内側にも外側にも存在する奇妙さ(通常、投影同一化と呼ばれる)は、三次元的な表象の限界のためであって、より高次元ではこの対立は解消しているかもしれない。サイコロを広げると、正方形四つの両端は遠く離れて見えるが、それは二次元に展開したためであり、元々はつながっている。彼はそれを推し進めて、二重論理でさえ部分的である可能性を示唆する。
他にも興味深い点は多々あるが、最後に若干の論評を加えたい。その一例として、対称性の極限の状態、「基本的マトリックス」と呼ばれる最深層の位置づけを取り上げよう。彼はそれを人生の最早期と結び付けて、死の本能や破壊性についての見方を変更する。なぜなら定義上そこには葛藤がなく、深い層では「穏やか」なはずだからである。ではなぜそこに、正反対である死の本能の活動が認められてきたのだろうか。マッテ-ブランコは、「この[不可分]モードと死の間には混乱が殆ど必然的に存在せざるをえない、というのもわれわれは死を、動きの欠如と同一視することに慣れているからである」と説明する(原書p.218, 訳書p.245)。――だがこれ自体は論証ではなくて、最早期が対称モードであると想定しているから成立する、定義の同語反復である。こうしたモデルが適切かどうかは、現象の中に分け入って確認しなければならない。総じて、マッテ-ブランコに欠けているように見えるのは、一つには、意味の破壊・マイナスKといった事象の捉え方である。彼が説く無意識には、病理論がほとんど含まれていない。彼の示唆するnon vital bi-logical structureはそれに該当しそうだが、ほとんど論じられていない。また、生と死がn次元では連続していると想定することは可能だが、そうした解釈はそれを支える世界観がなければ、意味をなさない。彼は、n次元が3次元的な表現をしているので散らばって見えるのではないか、と整理の仕方を提示するところに留まっているように見える。レイナーE. Raynerは彼をビオンと比較して、「マッテ-ブランコは性格的にもっと夢見がちで楽天的で、時にはそれが行き過ぎたかもしれない。おそらく彼は、少しばかり素朴なことがあると非難される余地がある」と評している。また、彼は特定の人の「自己全体と性格を舞台の中心に据えて」語ることをしなかったので、ドラマには乏しい。実際、読んでいて反復は多い。対称性の領域に深く関わり高次元の存在として極めて興味深い概念である「天使」に言及しても宗教的な深みには触れないし、「錯乱状態frenzy」はあくまで論理の、であって、そういう精神状態を論じているわけではない。
しかし、対称性は、そこを経て創造性、成長とイニシエーション、同一化と共感、個性化、自己実現あるいは狂気、自己喪失などに至る、極めて豊かな領域と思われる。
或る日本人は、ネパールで仏教を学んでいた。彼は授業の一環としてある朝先輩に連れられ、同級生たちと市場に行った。そして肉屋が一匹の山羊を殺して解体する場面で、瞑想することが求められた。その場で課題の意味が分からなかった彼は、後で友人に尋ねると、こう教わった:生命の輪廻の環の中にあって今は死を待つあの山羊は、かつて自分のお母さんだったことが何度もあるのではないか。自分に愛情を注いで慈しんでくれた人が、今は山羊となって、人間に食べられるために殺されようとしている。この山羊は、ただの動物や肉ではなく、お前のお母さんなのだ、そしてこの世のあらゆる生き物たちは、お前の母であり父であり、兄弟、姉妹たちなのだ、それを忘れてはならない、と。「山羊と私がたしかな連続体としてつながりあい、山羊と私とのあいだに同質性をもったなにかが流れている。そのことを理解した瞬間に、心の中に愛ともなんともつかぬ激しい情動がわきあがってきた」――若き日の中沢新一の体験である。彼は、それが仏教との本当の意味での最初の出会いだった、と言う。先の或る著作家とは彼のことである。
精神分析は、二人の違う人が出会おうとする限りで、二人ともそこにそのままいたのでは、何も起きない。では、何処に行くことが意味のある経験に通じるのだろうか。対称性は、確かに感動と戦慄を引き起こす、大海のようだ。本書は、毎日のセッションが極めて興味深く新鮮な領野であることを、改めて想起させる刺激的な書である。
(新曜社、2004年、399頁、5200円+税)
文献
マッテ-ブランコ:「分裂症における基礎的な論理─数学的構造」(廣石正和訳、現代思想 1996.10)Basic logico-mathematical structures in schizophrenia. In D Richter ed. Schizophrenia Today. Oxford, Pergamon Press, 1976.
Blanco, I.M. (1989): Comments on ‘From Symmetry to Asymmetry’ by Klaus Fink. Int. J. Psycho-Anal., 70:491-498.
Jordan-Moore, J.F. (1995): Obituaries. Ignacio Matte Blanco 1908-1995. Int. J. Psycho-Anal., 76:1035-1041.
妙木浩之:心の中の「無限」。無意識の数学――マッテ・ブランコの精神分析・1、2、3、イマーゴ、1992年10月号p.115-123、12月号p.32-40、1993年2月号p.200-210。
中沢新一:対称性人類学 カイエ・ソバージュX。講談社選書メチエ291、講談社、2004。
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