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ポスト・クライニアンによる心の原基の探究 (イマーゴ93-3)
−−フランセス・タスティン『神経症患者における自閉的障壁』−−
福本 修


 「冬のある日/深く暗い十二月/私はひとりで/窓から見つめる/下の通りの/積もったばかりでしんとした雪の帷子カタビラを/私は岩、私は島

 私は壁を築こう/奥深く強大な要塞を/もう誰も入り込めないような/友情は要らない/友情は痛みの元/私は笑いや愛情を軽蔑する/私は岩、私は島

 愛なんて言わないで/昔聞いた言葉だけれど/記憶の中で眠っている/私はまどろみを乱したくない/死んでしまった感情の/愛さなければ泣くことはなかったはず/私は岩、私は島

 私の本と/詩が私を守ってくれる/私は鎧に覆われ/部屋に隠れる/母胎の内にいる状態/私は誰にも触れず誰も私に触れない/私は岩、私は島/岩は痛みを感じないし/島は決して泣かないから」(Paul Simon, lyric to 'I am a Rock')

 或る神経性食思不振症の少女は、フランセス・タスティンにこの歌詞を渡した。普段ポップスの歌詞に注意を払わなくても、改めて読むと独特の心的世界をよく表現していると気づくことは少なくない。自分は岩か島となって、要塞の中に篭もっている。人との関わりは、苦しみたくないので持たない。かつて傷つけられたことがあるが、それは思い起こしたくない、もう何も感じないからいい。自分の気持ちは死体のように雪の下に埋まっている−−彼女が伝えようとしている経験は、このようなものだろうか。

 タスティンの理解では、神経性食思不振症に限らず神経症のパーソナリティにもこのように凍結した、孤島のような自閉的領域が存在する。それは情動や知性の機能を障害しているが、障壁によって堅く遮蔽されているのでなかなか問題として十分に取り上げられない。また、去勢不安や迫害的不安という観点から理解することも困難である。と言うのは、心的な内容以前の、経験することを可能にする心的空間の形成に関わる障害だからである。

 タスティンに先駆けてE・ビックやシドニー・クラインらがこの領野に注目し、乳児の直接観察や大人の神経症患者の治療を通じて研究していた。元来タスティンは多くの自閉症的な子供や精神病的な子供を分析治療してきたが、共通する精神病理を大人の神経症者にも見出すことができると考えるようになった。同じく自閉症を研究したメルツァーと比較して、タスティンは「自己」の基本的な存立が脅威に曝されたときの破局的不安に注目することによって、特有の対象関係と防衛ばかりでなくあらゆるパーソナリティに潜みうる自閉的部分の問題を「乳児的転移」として包括することができた。そして彼女は彼の仕事を踏まえつつ、自らの拠り所をクラインに限定せず、ビオンやウィニコット、さらには広くマーラー、ブラゼルトン等と対話する。

 これは「容器」(container)が如何に形成され機能するようになるかの問題であり、ビオンは分裂病から接近したが、タスティンは病理的な殻を作る自閉症児から理解しようとした。死が生に対立しその脅威となるのは、既にそれを感じる心が存在するからである。生命/物質の亀裂の方が、或る意味でより原初的である。たとえ不在の対象であっても心の中で連続性が保たれているので、世界は象徴的に経験される。心の原基が隣接しているのは、非生命的(inanimate)で心的表象の世界に入らないブラック・ホールとしての"物"である。ビオンの「ベータ要素」は、むしろこの"物"によく適合する。タスティンはビオンの分析を十四年受けていたので、相互影響があることだろう。自閉症的対象関係は、母親の情動に包み込まれず、生命から物質へと境界線を転落するときの、乳児の包容されない(uncontaining)不安を処理しようとしている。ビオンはこの不安を「言いようのない恐怖」(nameless dread)、ウィニコットは「無限の落下」(falling infinitely)と形容した。

 『神経症患者における自閉的障壁』(Frances Tustin: Autistic Barriers in Neurotic Patients. Karnac Books,1986)は、自閉症児に見られる狭義の自閉症を扱った第一部と自閉的心性を広く論じた第二部からなる。自閉症の精神力動に関する彼女の見解を紹介する必要があるが、私は自閉症児の臨床を行っていないし紙幅もないので、ここでは簡単な要約を書いておくことしかできない。
 先に、そもそも自閉症児への心理的接近が有意味なのか問われるかもしれない。現状は認知機構の障害説と行動療法的教育が主体である。しかし、病因論上の対立、器質論vs心因論は、確認できる治療効果があるかないかと関係がないと私は思う。脳挫傷ですらリハビリテーションがある。価値は成果から評価される。

 タスティンは臨床的な自閉症児の中に心因性のものが多く混在しているとし、自分が母親と身体的に分離していることを性急に直面化された外傷を挙げている。患児は自己感覚の出来上がる前に脱=錯覚(ウィニコット)が急激に進んだために、先の破局的な不安に襲われる。患児は主に触感を通して「自閉的対象」(autistic object)や「自閉的輪郭」(autistic shape)とタスティンが名づける関わりを外界と結ぶことによって、この喪失と不安を否認しようとするのである。「自閉的対象」とは患児が自分の肌に痕が残るほど強く押しつけて、存在の連続性を人工的に維持しようとする対象で、対象の元来の用途はお構いなしにその堅い材質感から選ばれる。変化が即破局と経験されることは、患児が自分の秩序を乱されたときの恐慌状態を見れば理解できるだろう。「自閉的輪郭」もまた柔らかく接する表面の感触だが、患児が対象の象徴的次元を無視して操作しようとする点が病理的である。前者は父親の機能の、後者は母親の機能の位置にとって代わっている。何れも感覚中心的・二次元的で、葛藤を抱える心の容量を自己のうちに保持することにつながらず、現実との関わりを阻害する。

 これは母親に攻撃性や死の本能を仮定する従来の誤った単純な心因論とは異なる。母親側の問題は、患児が必要とするほどの情動的な対応力が、さまざまな不安や抑鬱によって欠けていたことである。患児の脆弱性が何に由来するかは不明である。タスティンはここで原因を論じず、自閉的防衛に陥った心に如何に働きかけるかを考える。彼女の理解の中心は生得的攻撃性ではなく、特殊な喪の否認にある。

 本書の各章には、鋭敏な理解力と敏捷で忍耐強い対処を兼ね備えた精神分析的精神療法によって、多くの子供が自閉的な孤絶から救い出されるさまが書かれている。治療者が確かな理解で包み直し、患児の喪の作業に付き添い、自閉的な操作には妥協しないことによって恐怖は克服され、その後に初めてどのような経験であったか言語的に報告される。冒頭の歌詞にはその世界が窺われる。ちなみにクラインの症例ディックは、クライン自身の診断では小児分裂病となっているが、彼女は自閉症と診断して改めて考察している。

 興味深いのは、タスティンが見出した以上のような基本的不安とそれに対する防衛が、自閉症児ではない大人でも秘かに働いているということである。限界状況にあるとき誰でも感じる、落下する恐怖や自分の中味がこぼれでて霧散する恐怖は、その片鱗である。我を忘れるほどの高揚の後に心理的落下を体験し、強迫的に防衛しようとしたり、恐怖症的反応を示したりするかもしれない。恐慌発作の奥には、この不安が存在する可能性がある。もっと秘かな、口の中で頬を噛んで感覚刺激を与えるような性癖も、心理的な自閉的領域の隠蔽を示唆しているのかもしれない。−−このような観点は、従来からの象徴解釈に適さない素材までも理解する可能性を提供してくれるだろう。

 タスティンは本書に続く著作(The Protective Shell in Children and Adults. Karnac Books,1990.)で、更に詳しく論じている。D・アンジューの研究(Didier Anzieu: Le Moi-peau.Bordas,Paris,1985.)も彼女の関心に近い。オグデン(Thomas H. Ogden: The Primitive Edge of Experience. Jason Aronson,1989.)は、タスティンの諸概念を積極的に取り上げて、以上述べたような問題領域を「自閉-隣接ポジション」(autistic-contiguous position)と概念化している。それが妄想分裂ポジションへの退行とも躁的防衛とも異なる抑鬱ポジションの障害であることは、すぐに予想されよう。彼の仕事は一読に値するが、対象関係論がアメリカ西海岸に移って、英国経験論的な慎重さと未知への畏敬が脱落した印象がある。詳しくはまた別の機会としたい。


 
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