|
|
コミュニカティヴ精神療法(communicative psychotherapy)の効用と限界
−−ラングス・イン・ロンドン−− (イマーゴ94.11)
福本 修
ロバート・ラングスは1990年リージェント・カレッジに「精神療法及びカウンセリング」の履修コースが設定されて以来、その客員教授として招かれている。それに呼応するように、英国ではこの二、三年で彼の本はカルナックから何冊も出版され、公開セミナーが頻繁に行われている。本年で四回目の"Langs in London"(1994.7.16-17)の機会に、半ば好奇心も手伝って、私はこの旺盛な著作家の実際を見てみる気になった。私は彼が圧縮再版した"A Clinical Workbook for Psychotherapists"(1992)という技術書を読んで、既にかなりはっきりとした感想を持っていた。近作を蟠けば彼の心のモデルが、「無意識」や「抑圧」の語を用いつつも、独自のものであることが更に分かる。それを端的に言うと、「ラングスの技法的=理論的提起は極めてよく構成された治療構造論だが、交流分析や認知療法を精神分析とは呼ばないように、もはやそれとは別物ではないか」というものである。結果的に、この印象は確証validationを得られたようので、短報的に述べておきたい。総括の前半部即ち「治療構造論としてのラングス」は、治療構造から介入方法を決定しようとすることに内在する困難も含めて別個に論じるに値するが、ここで詳論する余裕はない。
ラングスの治療構造に対する注目は最初の技法書"The Technique of Psychoanalytic Psychotherapy"(1973,1974)以来一貫しているが、背景にある理解は大きく変化した。彼は小人数の聴衆を前にして、"'Kill The Messenger': From Psychoanalysis to the Communicative Approach."という題で自分の仕事の歩みを振り返った。それは講演と言うよりインフォーマルな話だったが、後で活字にするつもりでテープ録音していたので、ここで紹介しても構わないだろう。
ラングスのこの二十年の経験は、彼の視点からは精神分析がメッセンジャーを殺してしまおうとする迫害の歴史である。
最初の著作は現在の彼にしてみれば、空想や心的力動を扱う表面的無意識システムと枠組みからの刺激に反応する(encode)第二次深層無意識システムの取扱いの混淆物である。それを書いた動機は技術的関心も強かったろうが、一つには、M・バリント(特に"The Basic Fault")から治療環境の重要性に眼が開かれたことである。それ以前には、ただ患者の連想を解釈することしか彼の頭になかった。しかし彼自身の症例は10%だったという豊富な例示を含んだその本は、同僚・先輩たちからの激しい反応を引き起こした。典型的な例は、患者がそれを読んで攻撃しており、精神分析の名誉を汚しているというものである。勿論ラングスに言わせれば、患者は治療者の批判を直接する代わりに彼に置き換えて当て擦っているのだから、彼を批判しても筋違いのことである。しかし"Bi-personal Field"(1976)を出した頃には、既に彼は周囲から、他人の症例素材を勝手に使っているのではないかと危険視されていた。それとは別の問題によると思われるが、彼は『国際精神分析誌』(International Journal of Psycho-Analysis)に投稿しても、掲載拒否された。ラングスの説明では、理由を尋ねると当時の編集長は「ドクターラングスへ、あなたは分析者に多くを期待し過ぎている。ジョゼフ」と書いて寄越しただけだった。
彼が新雑誌を興したのは、こういった事情からである。彼は本を何冊出しても書評に取り上げられず、研究所の講師陣からは外され、講演の演者からは降ろされ、ミーティングには招かれず、結局学界から殆ど閉め出されてしまった。
何故そういうことが起きたのか、彼によれば「コミュニカティヴ・アプローチは精神分析が見たくない、見ようとしない問題を取り上げているからだ」ということである。だが、ラングスの理論をあてはめれば、これは表面的力動的な説明であり、本当のところは枠組みの逸脱が何処かであったからではないかと想像される。治療状況に治療者側の問題を混入しないようとする彼のアプローチ自体には、批判を招く部分がないからである。彼は今や科学性に自己の根拠を求めようとし、心のモデルの進化論的な説明を試みている。ただ、説明の方をコミュニカティヴ精神療法のモデルに合わせている印象がある。特に子供の発達を参照していないのは、説得力の弱いところである。
ラングスの試みの功罪を理論的に総括することは別の機会に譲るとして、次に彼流の症例検討がどのようなものかを伝えることにしよう。スーパーヴィジョンに際して、彼はドアをぴったり閉めて守秘性に関して何度も確認をしたが、私がここで紹介しても、少なくとも治療者及び症例の守秘性には何の問題も生じないだろう。ラングス自身のやり方に関しても守秘義務があるのかどうか私にはよく分からないが、本に登場する彼の実例が守秘性への配慮を理由として実際には殆ど創作であることを考えると、それを伝えるのは構わないばかりか、一定の意味のあることのように思われる。但し、個人的な一印象に過ぎないことは改めて言うまでもない。
患者は60才過ぎの女性で、地域のコミュニティセンターで週2回の精神療法を受けている。実際の面接の提示に先立って検討されるのは、治療構造と逸脱・その変更がもたらす意味である。この場所の設定では、受付が介在したり待合い室で患者同士が会ったりする、治療状況への「第三者の侵入」が生じる。治療者は他の治療者と接しているところを患者に見られ、「匿名性」も侵されている。それから、患者は週2回面接に来ることを希望したが、正規料金は払えないので合意の上減額している。スーバーヴィジョンの導入部は、このような逸脱が一般的に何を意味しうるかの吟味に費やされる。この含意に関して、整合的な解読方法を開発し殆どの可能性を網羅してみせ、マニュアルに仕立て上げたところがラングスの卓見である。
スーパーヴィジョンの次の段階は、前回の面接で起きたことの治療者による要約である。ただ、症例提示者はその意味に気がついていないことが多いから、この段階で報告されるべきことが見過ごされるのは珍しくないようである。
それから面接そのものの提示である。患者は、四十過ぎの息子が実家から完全に独立しているべきなのによく彼女のところに来るので困る、今度も親戚の集まりに顔を出しそうで、どう断ったらいいか分からない、と繰り返し話す。スーパーヴィジョンでは、このようなイメージがどういう意味を含んでいるかが推測される。治療者は、この息子がアルコール依存症で、訪ねてくるのは金銭的な援助の求めも含まれていることを追加した。この像からワークショップ参加者たちが空想したのは、どこかで治療者が患者を搾取していないか、治療状況に侵入者がいるのではないか、等々だった。中には、このケースがスーパーヴィジョンの対象になっていて、そのことを患者は気づいているのではないかと想像する者もいた。実際には、治療者は定期的なスーパーヴィジョンを受けていないのでそれはありえないことだった。
面接では、患者は同じ心配と不満を述べ続けた。ラングス流を習いつつある治療者は連想内容から治療関係を破るイメージを引き出して、患者が面接開始時間前に治療者が受付から出てくる姿を見たことを枠組みへの脅威として経験したと解釈した。ラングス流では、解釈に連想内の表示(indicator)、治療者側のその引き金(trigger)、治療状況との橋渡しとなるイメージ(bridge)、解読の根拠となる派生的表象の指摘が含まれるので、長くなりがちである。カウンセラーの介入に対して、患者は特に感銘を受けた様子を示さず、自分がこれから打ち込めるものを何か見つけようと、同じセンター内のクラスに通っていることを話して終わりとなった。
ラングスの考えでは、治療者が介入するポイントとなるのは二種類、即ち明白な性的イメージ或いは身体・生命への危害の恐れ、破壊的なものの何れかが現れたときのみである。他の力動、例えば女性としてのアイデンティティや生き甲斐のようなものは、患者が考えるのは自由だが第二次深層無意識システムの問題の解決には関係がない。以上の二種以外の時には治療者は沈黙を守るべきであり、安全な枠組みを提供すること自体が抱える環境として治療的効果を持っていると期待されている。勿論、必要な時に介入を行わず黙っていた場合には、次の段階でそのことが患者への刺激として理解されるべきである。だから治療者がこの原則的に黙っていたのは問題視されないが、受付で治療者の姿が見えたことは、全てを帰するにはあまりに微弱な理由である。
ラングスは、このセッションでは介入のポイントがなかったと総括した。と言うのは、表示が見当たらないからである。その場合、最後になってから理由を考えるのが彼のスーパーヴィジョンのスタイルである。このやり方を採用すると、最初に枠組みと前回の面接での主要な出来事を聞けば、原理的には或る一回の面接について、それがどの時期であろうと検討することができる。マニュアルの最大の利点は、治療経過を辿らなくても歪曲は結局治療構造の歪みに反映されているはずなので、順次チェックしてそれを探し出せば良いということである。一覧表が直観や想像の代行をし、スーパーヴァイザーはあまり想像力を要求されない。
ラングスは最後に、「アルコール依存症の息子」が意味しうるものとして、治療費を減額して面接を週二回持っていることとの関連を示唆した。すると治療者は、患者が“打ち込めるもの”を探そうとして通っているものが実は別種の治療であり、同じセンターに別な曜日にも週二回来ていることを明らかにした。それでも、スーパーヴィジョンの時間に終わりが来たという問題とは別に、この回に治療者側に介入の機会はなかったという結論は変わらなかった。介入点が見当たらないことは、珍しくはない。参加者たちは、発表者も含めてラングスの説明の仕方に納得していない様子だったが、それは面接が明らかに停滞しており問題をはらんでいるはずなのに、掴みどころがなかったからだろう。別のスーパーヴィジョンでは、提示された面接の次の回がキャンセルされたことが最後に付け加えられたことから、キャンセルをその前に宣言し既に枠組みを逸脱しており、改めてその回に行動化を行う必要はなかったことが明らかになった。しかし報告者は、その連関に気づいていなかったので、その事実はあとから追加された。
本例では、ラングス流のアプローチの限界が端的に示されているように思われる。彼は情緒や逆転移を力動理解の参照点として採用せず、全てが言語的表出となるまで介入を控えることにした。しかも、患者固有の病理は論じず、あらゆる問題を治療者側の失敗に帰し、枠組みの修正が同時に治療的な効果を持つとした。その結果、有効な介入が困難になるばかりか、患者自身の病理的な部分が治療者を必然的に失敗させているという理解を持つことができない。ケースメントが離れていったのは、この点が理由の一つである。アルコール依存の息子がいる患者を前にすれば、患者の中に依存させている母親の部分の他に、病理的に依存し寄生する息子の部分の存在を想定するのが対象関係論の一般的な発想である。そして患者のくどい語り・治療者の受ける印象・掛け持ち治療の開始から、患者は自分の中のアルコール依存の息子の部分を面接の中で再演enactmentし、依存を許す母親の役割を治療者に与えている、と見るところだろう。或いは、面接の中での行動化acting-inを通して息子を連れてきて、治療者ならばどういう対応をするかを窺っている、と。
このようなhere & nowの理解に対して、言語以外の表出を参照しないラングスの考えを適用しても、同じ結論を出すことはできる。減額された治療費という慢性的な枠組みの逸脱から、治療者が患者を過度の依存状態に陥れている可能性が想定されるはずである。それがコード化された発言を捜すと、アルコール依存の息子が家から独立せずにやってきては金を渡さざるを得なくなるので困る、と繰り返し述べているのが目につくだろう。そこで枠組みの修正を行い、そのような治療者の態度が患者に取り入れられることを期待するだろう。−−しかしながら、実際には参加者たちは、専ら治療者の非を探したために見当違いの憶測を繰り返した。ラングスはhere & nowとしての治療の枠組みを強調するが、それは直観と結びついていない、間接的に演繹されるhere & nowなのである。
ラングスはコミュニカティヴ・アプローチに乗らない患者を、安全な枠組みに対して不安を感じて逃げ出すためと特徴づけ、早期の外傷経験・過剰な死の本能等の存在をその理由とした。だが言語的表出が可能な者は限られており、枠組みの歪曲が明確になるまで、時には患者が来るのを止めるという最大限に達するまで介入する方法を持っていないとすると、適用できる範囲は提唱されている以上に狭いだろう。また別の問題は、このような迂遠な方法によって問題を見出し枠組みを修正しても、患者の病理的部分を同定する過程が欠けているので、形を変えた反復が繰り返されるだろうということである。そして問題の起源の再構成を行わないために、患者の自己責任は明確にならない。
更に問題なのは、既に分析者としての経験を積んだラングスが自分用の簡便法を使用する限りでは、省略されるものは実際にはそれほど多くはないだろうが、このような公文式精神療法しか知らない者が欠くものは少なくないことである。しかもラングスは現在、訓練分析を排除する“self-processing psychotherapy”を提唱しており、自己完結する可能性は強い。
マニュアルは、起こりうる事象を予測し網羅するところに価値がある。例えば、ラングスは「治療的な交流の七つの次元」の中に「6.同一性と自己愛」を加えることによって自己心理学も解読格子の中に吸収した。知識を追加していくことは今後も可能である。しかしこの方式には根本的な盲点がある。構造論は注目の焦点を篩いに掛けることによって、それでは分からない現象を必然的に視野からこぼす。知識によってその空白を補おうとしても、際限がない。むしろ未知を前にして持ちこたえ、意味を発見できるかどうかが肝要であり、そこに精神分析の意義がある。ラングスは精神療法と精神分析を区別しなくなったが、彼の提唱しているものと精神療法の区別は確かに曖昧でも、既知への還元がその中核である点で、それは精神分析とは別物である。それは、公文式によって計算が速くなっても数学者にはなれないように、未知との接触を排除している限りで創造性とは関わりのないものである。
最後に、別の「確証」を述べておこう。ラングスによれば、介入を行うとそれに対する「確証」が患者の連想の中に見出されるはずであり、有効性の有無はそこで吟味されるべきである。では、精神療法の世界はラングスにどういう反応をしただろうか。一つの指標は、どういう人がどれだけの関心を向けたかである。彼は何カ所かで講演会を持ったが、聴衆はカウンセラー或いはセラピスト・その研修生で、彼の話を聞きに来た分析者は一人もいなかった。彼のやり方は、教育法としても興味を呼ばなかった。カウンセラー講座の多くの学習者は、既に幾つかの精神療法を受けたが満足を得られず、個人的な問題に疲れ果て、Self-Processingすることで自分を支えているようだった。そこから想定されるのは、ラングスの方法が治療者のアイデンティティを作り上げるための衣装として機能しているということである。
ラングスは日本で治療構造の理解がどのようになされているか興味を持ち、前々から行ってみたいと思っていたそうである。そして一冊も翻訳がされていない状況について、「エージェントは問い合わせてこないし、一体どうなっているのだろう」と怪訝そうにした(「どれも厚過ぎるから」と答えたところ納得していた)。彼のような簡便型の精神療法を受け入れる素地は、或る意味で十分にあるが、危険も承知して、慎重に行う必要があるだろう。
|