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New! ロバート・ケーパー著
『A Mind Of One's Own. A Kleinian View of Self and Object.(自分自身の心:クライン派から見た自己と対象)』
New! ドナルド・メルツァー著
『精神分析過程』
藤山直樹編
『ナルシシズムの精神分析 狩野力八郎先生還暦記念論文集』
岡田温司著
『フロイトのイタリア』
ジュール・グレン+マーク・カンザー編
『シュレーバーと狼男 フロイト症例を再読する』
T.H.オグデン著
『もの想いと解釈 人間的な何かを感じること』
ジアナ・ウィリアムス著
『内的風景と異物 摂食障害とその他の病理』
バゴーイン&サリヴァン編
『クライン-ラカン ダイアローグ』
木部則雄著
『こどもの精神分析』
マテ−ブランコ著
『無意識の思考』
ブリトン著
『信念と想像』
斉藤環著『文学の徴候』
 
New! 外傷を巡る言葉:「その戦いからの放免は存在しない」――ビオンの人生とその精神分析理論――
福祉と心理の間
テキストからセミナーへ、セミナーから経験へ――ブロンスタイン編『現代クライン派入門』に寄せて――
(公開終了)
ボロメアンの結び目は解かれるか(イマーゴ91-4)
精神医学に哲学は必要か(イマーゴ91-8)
分裂病の治療に占める精神療法の今日的な位置(イマーゴ92-1)
『精神分析用語辞典』以後のフロイト研究(イマーゴ92-6)
ポスト・クライニアンによる心の原基の探求(イマーゴ93-3)
暴力的な犯罪者への精神分析的接近(イマーゴ94-4)
母親の秘密の小部屋の住人たち ドナルド・メルツァー『閉所--閉所恐怖現象の研究--』(イマーゴ94-8)
(公開終了)
コミュニカティブ精神療法の効用と限界(イマーゴ94-11)
ビオンはフロイトを如何に越えたか(イマーゴ96-2)
対象関係論から見た自己心理学(イマーゴ96-6)
フランセス・タスティン――その生涯と仕事(イマーゴ96-10)
フランセス・タスティン――その生涯と仕事2(イマーゴ96-12)
分析者たちの面接室(ロバート・ヒンシェルウッド『クリニカル・クライン』)(イマーゴ96-12)
ルイス・キャロル(臨床精神医学2001)
メラニー・クライン、乳児の発見(現代思想)
「心の理論」仮説と『哲学探究』アスペルガー症候群[から/を]見たウィトゲンシュタイン
アスペルガー症候群とWittgenstein(精神科治療学19-9)
オグデン著「自閉-隣接態勢について」(季刊『精神療法』1989-7)

 










 
論考:
福祉と心理の間
(NPO法人「子どもの心理療法支援会」ニュースレター 2006.6)
福本修

 小さい子どもがいると、同じアニメをビデオやDVDで何度も何度も見ることになる。『千と千尋の神隠し』には、そうした鑑賞に堪えるものがある。このジブリ作品は、既にさまざまに論じられている。なかには千尋“萌え”といった気色悪いアキバ系?の解釈もあるが、概して、千尋が成長し自然とのつながりが回復される、情感豊かな世界の物語として理解されているようだ。

 おそらく「顔なし」についても、さまざまな解釈があるに違いない。今から述べるのはそれらを網羅的に踏まえた上でではなく、単に思いつきである。だが、精神病水準の患者が提示される事例検討会などで何回か言っているうちに、尤もに感じられるようになってきた。まず、橋の辺りに現れるのが、遺児か孤児のような、親なし・家族なし・係累なしの境遇を示唆する。「係累」とは、元来は煩わしい束縛を意味する。だからそれがなければ自由気儘ではあるが、どこまでも満足がなく、放縦や虚しさと隣り合わせである。そして「顔」がないとは履歴がないことであり、自己同一性を形成していないということである。名前もなければ、今まで何をしてきたのか、何をしたいのか、何ができるのか不明である。それでも彼は、アイデンティティがなくても生きる術は持ち合わせていたのに、千に甘える味を覚えると、少しの助走を経て欲求が高ぶり、たちまち収拾がつかなくなる。

 贋金で人を惹き付け、乱費と過食を重ね、空しくなっては嘔吐し続ける彼のさまには、衝動を抑えられない境界例患者・摂食障害患者が思い起こさせられる。彼ら自身は身につまされるほどに関連性を映画から見て取れないかもしれないが、その類縁性は、腐れ神を模倣して金を撒いたり周囲を巻き込んだりするところばかりでなく、その収まり方にもある。顔なしが落ち着くのは、何者かを問われることなく作業と生活をする銭婆のところでである。同じく過食でも坊の場合は、退行状態と見なすことができる。坊は冒険の旅に出て、戻ってきたときにはきちんと育っている。それに対して顔なしには、精神病水準の欠損があるように見える。彼に必要なのは、マネジメントである。

 そこで表題に戻ろう。坊のような事例には心理療法を、顔なしにはむしろ社会福祉を、ということだろうか?一見“人格障害”として力動的な理解が可能なようであっても、自分の声や顔を、つまり洞察や統合を求めることが不適切な事例はある。しかしその見極めは、どう行なうのだろうか?声を聞かれず顔を見出されることなく、精神病院での医療に埋もれる患者もいれば、坊扱いされて際限のない世話を、受けている/させている患者もいる。千のように苦団子を授かっていない心理士は、医者に言われるがまま意味を考えなければ治療者とならずに、専門性のない職員と化す場合もあろう。6月のセミナーで考えたいのは、こうした点についてである。

 それにしても、顔なしは40年前ならむしろ街中によくいた、会社では務まらないが家業を手伝って生活していた人たちに近く見える。それが今では大家族が分解されて、社会制度による施設・作業所・デイケアといったところに収められている。そこには銭婆のところのような文化性があるのだろうか。


 
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