書評:
木部則雄著『こどもの精神分析 クライン派・対象関係論からのアプローチ』
(岩崎学術出版, 2006年8月刊)
福本 修(『季刊 精神療法』)
本書は、1991年から4年間にわたってタヴィストック・クリニックの児童・家族部門に在籍してさまざまな訓練を経験した著者が、帰国後10年間、日本で臨床実践を行ない続けつつ折々に発表してきた成果をまとめたものである。著者は精神科に先立って小児科の研修経験があり、帰国後はサイコセラピストとしての活動に並行して、単科精神科病院勤務や産業精神科医としての仕事も一時期していた。本書の背景には、精神分析的精神療法の訓練ばかりでなく小児科・精神科での一般診療、児童精神科医としての診療・コンサルテーション、更には発達臨床センターでの臨床指導という幅広い経験の蓄積がある。
本書は全7章からなっており、著者によればどの章から読んでも構わないとのことだが、ここではほぼ順番に見ていくとしよう。
第1章は、「クライン派のこどもの精神分析理論」をフロイトから論じ起こし、アナ・フロイト、ウィニコットらとの異同を簡潔に概説したものである。自閉症と被虐待児の対象関係にもかなりの記述が裂かれている点が、現代的である。説明には多くの図示が活用されて親しみやすいが、どれも原典の一章あるいは一冊が凝縮された内容を持っていることに注意する必要がある。第4章を見れば「クライン派と自我心理学との相違」を、親面接の位置づけから空想・プレイの理解、治療者の介入法についてまで、チェシックの論文へのコメントを通じて具体的に知ることができる。確かに、クライン派から見れば患児の性的空想も自己像(=粘土付の高層ビル:これは母子関係でもあるだろう)も初回からあるのに、彼は1年後の連想が初めてのように捉えている。ただ、こうしたアプローチの違いが結局、長期予後にどういう差異をもたらすのかまで知ることは、難しいようである。
第2章では、乳幼児観察が取り上げられている。実例を読むと、幼児(2〜3才)の観察がプレイの理解に直結していることが分かる。また、生後18週の男児の観察記録からは、授乳とそれに続いてやがて起こる離乳過程の重要性が理解される。第3章では、クライン派の「プレイ・テクニック」の概説に続いて、著者による心因性頻尿の女児との29回のセラピーが描写されている。「ミルキーmilky」を「キルミーkill me」にしてしまう子どもの表現力には、児童症例を見ない者も感心させられる。概説ではプレイ室をどう用意すべきか、保護者にはどう接するかなどが実際に則して述べられ、事例では治療構造の確立までの苦労の詳しい記述と、面接記録の抜粋・クライン派のスーパーヴァイザーによるその理解が記されており、ともに参考になる。
第5章「こどもの心的世界のアセスメント」は、本書の中核である。豊富な症例とともにここで紹介されている「自由描画を中心とした精神分析的コンサルテーション」は、木部式とも言うべき独特の方法である。そこには、児童精神科医としての診断・ウィニコット流の当意即妙のやり取りと解釈・管理医としての親への対応などが、見事にブレンドされている。タヴィストックは訓練機関であって訓練生にこのような権限と責任は与えないので、これは著者が帰国後、日本の一般臨床の中で開発されたものであろう。その理論軸として、メルツァーの諸概念が十分に咀嚼されている。だから簡単に模倣すべきものでもできるものでもないが、神経症水準の子どもたちは理解によって目覚ましく改善するのに感銘を受ける。それに対して、著者の言う「境界例児」「スキゾフレニック児」には、継続的な心理療法が必要である。著者はまた、ADHDにはそもそも適切な診断が必要であることを強調している。第6章・第7章は、こどもの精神分析の映画・小説への応用例である。これらは、本書に含まれていない長期経過・予後について考える一助にもなる。
このように多岐にわたる本書は、こどもの心的世界を理解することに関わる者にとって大変興味深い内容を含んだ、必携の書と言えるだろう。
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