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分析者たちの面接室
(ロバート・ヒンシェルウッド『クリニカル・クライン』)(イマーゴ96-12)
福本 修
ロバート・ヒンシェルウッドは、日本ではおそらく『クライン派分析用語辞典』(Dictionary of Kleinian Thought, Second edition, revised and enlarged, Free Association Books, 1991)の著者として知られていることだろう。彼はその解説編として、『クリニカル・クライン』(Clinical Klein, Free Association Books, 1994)を著した。
著者はカーセル病院の臨床チーフとして活躍している現役のクライン派なだけに、それはコンパクトながらクライン派の基本的な考え方をカバーしつつ、現在注目を浴びている諸問題に基礎的な解説を加えた好著に仕上がっている。『辞典』がその性格上、定義を与えることから出典を明確にすること、概念の外延と発展を論じその後の批判と受容について記載することまで行っているので実例に乏しいのに対して、本書は読者を分析者たちの面接室に連れて行こうとしている。特に、鍵となる精神分析的な専門概念は必ず症例を引用して説明されているので、実際に使用される文脈に即した理解を持つことができるとともに、どのような臨床を根拠に概念が形成されるかも、多少窺うことができる。
取り上げられる症例は、アブラハム・クライン・ハイマンなどの古典から、ビオン・ローゼンフェルト・シーガル・メルツァー、更にジョゼフ・ブレンマン・ピックら現在活躍している分析者たちのものにまで及ぶ。臨床記述とその考察の歩幅は患者の精神力動に沿った緻密なものであり、瞬間・瞬間の情緒の変化を克明に追って理解することは、クラインがイギリス精神分析にもたらした特徴である。抜粋を読んで興味を覚えた読者は、出典論文に立ち帰って詳しく調べたくなるかもしれない。
第一部「基礎」では、メラニー・クラインが発展させる前提となったフロイト・アブラハムの考えが、手短に概説されている。象徴を解釈すること、転移を理解すること、自己愛の謎に取り組むこと、これらがクラインがフロイトからまず受け取ったものである。第一次世界大戦頃からフロイトは、心的構造論(超自我-自我-エス)とともに対象関係論を導入したが、アブラハムは鬱病者の分析的治療から、自己と対象の諸部分が摂取と投影を通じて相互に作用しているのを発見した。その基礎にあるのが、無意識的空想である。クラインは初め大人の患者に認められたこの空想の働きを、子供の遊びの中にも見出した。
第二部は「メラニー・クラインの貢献」として、彼が『辞典』の大項目Main Entriesで取り上げた13項目から、クラインの思考の発展に即して「子供のための方法」「内的対象」「抑鬱ポジション」「妄想分裂ポジション」「投影同一化」「死の本能と羨望」について順に解説している。諸概念の内実を理解するには、本書は『辞典』よりも有用と言えるかもしれない。例えば「内的対象」の章では、心気症患者の具象的な内臓器官に関わる無意識的空想から内在化の過程が論じられ、「両親結合像」の概念に至る。それから内的対象がどのような運命を辿るか、同一化の過程ではどう関わるかが吟味されている。クラインの論述は一般に、理論的仮説と治療経過の記述と彼女が解釈を通じて検証している過程とが入り組んでいて判然と分け難いことが多い。それに対してヒンシェルウッドは、クラインの精神分析的な仮説が連想−解釈−反応という流れの中で検証されていく過程を、明解に書いている。
その一方で、彼が時に挿入する理論的な要約は簡潔にして明瞭である。妄想分裂ポジションと抑鬱ポジションの対比(p.148)は、その一例である。
このように第二部だけでも、本書には『辞典』の補足としての価値があると思われるが、それを真にユニークなものとしているのは、現代クライン派の諸成果を概説した第三部「情動的接触と<K>結合」である。情動的接触及びK結合/思考は、現代クライン派が精神分析的な経験の中枢に据えていることである。そこではクラインを超えて、「逆転移」(ハイマン)、「知ることと知られること」或いは象徴形成(シーガル)、思考とエディプス状況(フェルドマン)、「分析の隘路とパーソナリティの病理的組織」(ローゼンフェルト・メルツァー・スタイナー)、そして治療者を巻き込んだ行動化或いは実演・心的均衡と変化(ジョゼフ)が主題とされる。
ヒンシェルウッドは『辞典』第一版(1989)への批判を受けて、改訂版(1991)を出した。幾つかの項目が変更追加された主な理由は、十分に取り上げていなかったベティ・ジョゼフの仕事を含めるためである。しかしそれでも、彼女が現代クライン派に対して及ぼしている影響の包括的な紹介にはならなかった。その一つの理由は、彼が大項目の「技法」を改稿しなかったためと思われる。それが『クリニカル・クライン』によって、最近のクライン派の技法的特徴が読者に分かりやすい形で届くようになった。
長らく未完結だった『メラニー・クライン著作集』(誠信書房刊)は、ようやく全巻が揃った。クラインへの関心は、ウィニコットに対するそれに劣らず以前からあったと思われるが、ウィニコットの著作が次々に翻訳移入されたのに対して、クラインの臨床と理論の紹介は、しばらくの間ハンナ・シーガルの『メラニー・クライン入門』に留まっていた。これは、両者の思想がどこまで日本の事情に合っているかを反映しているかもしれない。ウィニコットが強調した「程良いgood enough」母親と母子関係の一体性は、性的・エディプス的な葛藤を脇に置き、治療者と患者の関係が日常臨床と大差がないような錯覚を与える。だがクライン派の理論的な枠組みでは、母親は性的衝動及び攻撃性の対象であり、乳児の心性においても羨望・破壊・倒錯が強調され、その一方で広義の逆転移を含めて治療関係の中の情動の動きをモニターすることが求められる。彼らの臨床の厳格さと精緻さは、同じ水準で実行できそうにないと思わせる。
そのような中で、解説書にはどのような価値があるだろうか。その後スピリウス編『メラニー・クライントゥデイ』(岩崎学術出版社)が抄訳され、近くではロビン・アンダーソン編『クラインとビオンの臨床講義』(岩崎学術出版社)が刊行され、本格的な紹介は今始まりつつあるとも言える。書物のみから学習できることは限られている。おそらく重要なのはその限界を認めた上で、読者がそれを読むことで何のために何をしようとしているのかを、明確にすることだろう。
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