書評: T・H・オグデン著 大矢泰士訳 |
『もの想いと解釈 人間的な何かを感じること』 |
恵泉女学園大学/代官山心理・分析オフィス 福本 修 |
本書は、その情緒喚起豊かな記述と英国対象関係論との理論的対話を通じて深められた論考で世評の高い、アメリカ西海岸を代表する精神分析者トマス・オグデン(1946−)による第5作、“Reverie and Interpretation. Sensing Something Human”(Jason Aronson, 1997)の全訳である。30代初めから国際的専門誌に寄稿し続けた彼は、既に7冊の単著がある。邦訳としては3冊目であり、これまでの訳業を踏まえた本書は、大変こなれて読みやすい訳文の仕上がりとなっている。また、訳者による簡潔にして要を得た解題が付け加えられており、読者は彼の著作活動全体の中での本書の位置づけおよび本書各章の主題を視野に入れて読み進めることができる。
オグデンはこれまでから、原理にまで立ち返って考察した上で、それを臨床に結びつけた新しい概念を提唱してきた。最初の3冊では、彼は理論的概念の明確化と整理を試み、第4作“Subjects of Analysis”で、自分の立脚点を「分析的第三者」という間主体的な分析過程理解に結実させた。本書はその基礎づけを受けて、精神分析経験のより包括的で質的な規定と、技法上の新たな提言を行なっている。
本書の主眼は副題にあるように、理論の洗練と整合性の追究にではなく「人間的な何かを感じとること」としての精神分析作業にある。それは何か「についてabout」知ろうとすることではなくて、生きることと等価である。本書の主題として一節を引用すれば、「分析の課題に最も根本的に含まれているのは、被分析者がこれまでに達成できたよりも更に十全な意味で人間的になることを、分析のペアが助けようと努力することである」(訳書p.9、以下同)。そのために、分析時間の或る瞬間における「生きていること」と「死んでいること」への感覚は、二重の意味で重要となる。つまり、生きている言葉の生きているやり取りがなければ自分が生きるということは起きないし、一方、死から目を背けては、全能感に支配されてやはり生きることにならないからである。それは臨床的には、「偽りの生命感」がないか、どのような代理形成つまりは精神病理が展開しているかに注目することにつながる。例えば倒錯の分析(第3章)においては、「嘘/生命のなさ」という転移-逆転移における倒錯の実演を認識することが重要であり、発達障害を窺わせる患者とは、関わりが自閉的であることを認めることが交流の出発点である、少なくともそれを見出さなければ交流は不毛であることが示される(第2章の第4例)。
生きていることを最重要視する姿勢は、真の自発性とそのための空間をウィニコットのように尊重する態度に現れる。オグデンは精神分析の設定に関しても、この根底から改めて考察する。フロイトはカウチを用いる説明として、自己の無意識的思考に自分自身を委ねるためであると述べていた。しかしそれは患者にとっても重要なことである。オグデンは、この設定が患者にも分析者にもプライバシーを与え、それが「もの想い」を可能にする空間を与えるところに意義を認める。だから彼は、面接頻度にかかわらずカウチの使用を原則とすると言う。技法に関しても、本質的にそれは「分析過程を促進するものでなければならない」(p.77)という視点から彼は論じる。自由連想すなわち心に浮かぶことすべてを語ることは、精神分析において基本原則の根幹とされている。しかしこの教示は、自発性(意識的なものとは限らない)を尊重していないばかりか、プライバシーに関して侵害的でさえある。オグデンはこの規則を押し付ける代わりに、患者が他のどこでも経験したことのないような、無意識に触れる「分析的対話」を、初回面接で体験してもらうと言う。彼はこのアプローチを、カリフォルニアのビオン経由で身につけたのかもしれないが、筆者には明らかにタヴィストック・クリニックの香りが感じられる。
またオグデンは、自由連想を提唱したフロイトの本意として、分析の仕事は受容性と心の「遊び」が可能となる諸条件を創造するところにあるとする。フロイトが分析者に求めるのは「ただ聴くことsimply listen」だが、オグデンはその受容性を、ビオンの「もの想いreverie」に重ねる。その重要性は、「もの想い」が書名の前半を占めていることからも分かる。ビオンの概念は彼の著作の中でますます前面に出ており、書名自体が『注意と解釈』を思い起こさせる。――だがここで指摘せざるをえないのは、オグデンは主たる理解と実例において、ビオンと無関係なことを言い続けている、ということである。
ビオンのreverie概念は、乳児が自分で抱えられない「言いようのない恐怖nameless dread」の投影を、母親が引き受けるときの心の在り方と機能を指す。それは混沌としていて耐え難い“出来事”の侵襲に、情動的経験としての輪郭と意味の萌芽を与えようとするものである。それに対してオグデンはこの語で、英語の日常的な意味のままに、気が散って半覚醒のぼんやりした意識状態のなかで生まれる想念・白昼夢・空想・イメージ・身体感覚・・・を指している。彼は、用語に「或る程度のずれを許容」することを要請する。また、「もの想い」が「疎隔され、自己に没頭した、患者に注意が向かない心理状態を反映するものと考えるのは不正確である」(p.50)と述べる。彼が言いたいのは、分析者が自分の感情状態に注意を払うことで「強い情緒的直接性の感じ」と「患者の無意識的体験と共鳴している感覚」を得られることだろう。それは従来の言葉で言えば、広義の逆転移経験の活用であり、そうした派生物から或る意味で逆算して共通する情緒を取り出し、患者のこういう体験に呼応しているのでは、と再吟味する手掛かりとするのが、オグデンの症例提示に共通したプロットである。セッション中に自分の脈拍を取ること(p.19、第2章第1例)は、生きている感覚を求めていたという理解につながり、自分の工事請負業者との会話を思い出したこと(p.93)からは、親しさの喪失が患者の経験でもあると思い至る。だが、これは一つの技法であるにしても、随分な回り道に見える。ビオンの言うreverieは、もっと相手の経験に専心していて直接的である。だから本書では、母親の「もの想い」とまったくおなじことを指しているのに、「アルファ機能」は一度も言及されることがない。実はオグデン自身にも、もっとビオンに即した理解が確認できるところがある。先に、どのようにしてここまでのずれが生じたのかを考えてみたい。それは「分析的第三者」概念に起因すると思われる。
本書の中核命題は、「分析過程の中心には、分析の第三主体(間主体的な分析的第三者)の創造へと導く、分析家と被分析者の『もの想い』の意識的・無意識的状態の相互作用がある」(p.87)というものである。この「第三主体」は、ビオンと関係があるのだろうか。「分析的第三者」の定義は大体同じなので一例を見ると、「分析的第三者は、二人の人によって同一に体験される単一の出来事ではなく、むしろ、分析家と被分析者が参与し、共同的にではあるが非対称的に構築され体験される、一連の意識的および無意識的な間主体的体験である」(p.71)。彼が強調するのは、精神分析を二つの主体、すなわち分析者と被分析者の間の相互作用interplayとして捉えるのでは不十分だということである。確かに分析者も被分析者も、意識水準でお互いに関わるだけでなく、それぞれの無意識と関わる。フロイトが発見したのは、その無意識がいわばもう一つの主体として存在することである。転移-逆転移関係への注目は、両者の無意識が如何に呼応しあうかを捉える試みである。
では、そこに第三の間主体的な主体を立てることに、どのような意味があるのだろうか。面接の場にはそれ固有の自律性があり、そこでこそ生起するものはある。だがそれは患者と治療者が能動的に構築するものではない(構築されては「主体」性がない)し、さまざまな生起に統一的な主体を想定してよいかどうかも分からない。それは自己の延長ではない限りでの他者性を有しても、自分の無意識の場合のように、第三の主体がその願望を引き受け直すといったことがあるわけではない。それは主観的な主体感を持ちうる場面を欠き、不可知に留まる点で、他の二つの意識的主体とは異なる。更に厳密に言えば、分析者・被分析者あるいは治療者・患者の二者も、意識される主体ばかりでなく無意識の主体を、自らのうちに不可知なものを包含している。こう言い換えると、オグデンの着目しているところは、ビオンのOと酷似しているように感じられる。そればかりでなく、こういった状況を描写し考えていくのには、Oa(分析者の究極的現実)・Op(被分析者のそれ)・Oa+p(面接場面=間主体的経験のそれ)と捉える方が、適切でより生産的に思われる。オグデンがビオンの『変形』に全く言及したことがないのは、奇妙である。だがそれに依拠すると、分析的第三者という概念はredundantになるだろう。彼が夢を主題的に論じるようになると、概念上の困難はもっと明確なものとなる。
筆者はアメリカにおける精神分析の潮流に詳しくないので、断言はできないが、この発想はビオンからと言うより、「面接時間中に患者からの無意識的コミュニケーションへの反応として生まれていることに[分析者が]自分で気づいた、或る種の思考・感情・空想・身体感覚は、分析者の中にある抵抗を明らかにして、介入を形成するのに役立つ」という問題提起の流れの中にありそうである。ちなみにこの引用は、ジェイコブスJacobs Tの「分析者の内的な諸経験」(1993)からである。アムステルダムでのこの発表に対するグリーンGreen Aの批判的討論も雑誌収録されているのでそちらを参照されたいが、その要点は、これだけ広い範囲の自分の経験(オグデンの意味での「もの想い」と言ってよいだろう)を参照することで、治療者は自分が気になる表面的・前意識的な主題にばかり囚われて、患者の無意識を取り逃がすという恐れである。オグデンは、恣意的になりうるこうした分析者側の経験の使用を、理論的にも実践的にも意味と根拠のあるものにしようとしていたように見える。つまり彼の貢献は、通常、分析者の雑念や身体感覚として省みられないものの経験に着目したところにではなくて、本当に面接のhere & nowで生起しているもの(Oオーと書きたい)を聴き取ろうとしたところにある、と思われる。ここでのオグデンの意味での「もの想い」は、二人の関係性を外から見る「足がかり」(p.61)として、つまりは「第3の位置」(ブリトン)としての価値を持ちうるだろう。
オグデンは、クライン派に近いとは言い難い。筆者は特に注意を払っていなかったが、それにしてもクライン派による書評を見たことがないのを不審には感じていた。改めて通観すると、『こころのマトリックス』の頃の彼の論考にクライン派が関心を示さなかったのは、了解しやすい。クラインの「無意識的空想」概念に、不明確さや混乱(観念なのか活動機関なのか)があることは確かである。それに対してオグデンは、内的対象を「自我の分割-排除された側面が対象の心的表象の『なかに投影された』ものである、と概念化する」ことを提案した。だがそれで認知的・自我心理学的な整合性は付いても、肝心の「内的対象」という内なる他者の圧倒的な力は、汲み取られていない。これは、科学的・演繹的な説明文脈と心理的・人間的な体験文脈の違いでもあるが、それ以上に、不可知のもの・人間の知ることの限界を認めるかに関わる。ビオンの概念を用いれば、おそらくグリッドの行の違いあるいは頂点(vertex)の違いとして差異を認めるところだろう。新しいポジション(自閉-隣接ポジション)があまり引用されない理由は耳にしたことがないが、高度の抽象であること、依拠する論考が主にメルツァー・タスティンであるところに、受け入れられにくさがあったかもしれない。
しかし近年のオグデンによる夢の理解は、クライン派にも注目されているようであり、実際に2005年刊の第7作およびそれ以降の論文では、興味深い論考と読解が展開されている。その基本構想は、精神分析/スーパーヴィジョンは患者/スーパーヴァイジーが心的苦痛から夢見る過程を中断したところで、分析者/スーパーヴァイザーが「もの想い」を提供して、こころに収められなかった「叫びcries」を経験する=夢見ることができるように助けるものだ、という理解である。「叫び」は切迫した情動の直接的な現れであり、ビオンのアルファ機能論を発展させていることが明らかである。その分「分析的第三者」への言及は、必然的に減少している。それは、アルファ機能を個人にではなくて組織やパートナー関係に関して述べることは、比喩としての意味はあっても、「間主体的主体」のアルファ機能を実体化して云々することには意義が希薄だからだろう。ビオンとウィニコットを生成論上で合体させるのは、無理なことである。それに、聴き取られるべき叫びは、そもそも患者のものである。
ともあれ本書の後半は、その後の彼の展開の序章として捉えられそうである。第5章「夢の連想」で彼は、分析者が患者の夢に自分の連想を提供する意義を主張している。英国の実践では、夢に限らず患者の連想を覚醒時の夢すなわち無意識的空想の表れとして受け取り、投影を通じて共有された未分化な情動と対象関係を理解して解釈する。それは分析者の連想あるいはもの想いを提供していると言ってよい。だからオグデンの提案は、遠慮がちにさえ見える。
英国流で要素連想を必ずしも採らないのは、既に投げ出されていて患者の中に残っていないか、あってもそれは咀嚼されていない物自体のような存在だからである。この塊をどう解きほぐすかが臨床的な課題であり、ビオンの意味での「もの想い」が発揮される場面である。その意味で、第6章「もの想いと解釈」の症例記述は示唆的である。オグデンはやはり何度も、回想された自分自身の経験と想念を手掛かりにしようとするが、そのうちの一つは、友人の緊急手術とそれが引き起こした「強烈な恐怖」(p.109)である。最初この恐怖は、彼に無感覚を生じさせる。「それは一杯のワインを一気に飲んだ後の情緒的にぼんやりした状態の始まりと似た感じのする、疎隔の感覚だった」(同)。しかしオグデンはその感覚とそれに続く感情を追って、味わいを確認しようとする。そして「深い孤独と喪失の感情」を見出す。彼はまた自分の想念に戻るが、対象が引き起こす経験世界の質感を把握しようとするこの部分こそ、reverieであろう。この過程は、一気飲みで分かることではない。甘いか辛いかは舌が触れた瞬間に直接的に伝わることだろうが、本当の質の理解には経験の厚みを要する。ワインのテイスティングは、単に馥郁たる薫りと味わいを知ることではなく、それによって招かれて、複雑な情緒の織りなす世界にとどまり、そこに濃縮された経験を人生そのもののごとく堪能することである(らしい。『神の雫』参照)。
だからオグデンが詩人フロストFrostを読解する最終章の試みは、極めて興味深い。それは趣味的な補遺ではなくて、まさに精神分析的に聴くことの実践である。詩を読むに際して、「私は・・・できる限り深く言語のなかに入ろうと試み、また、言語が私のなかに深く入ってくることができるようにしようと試みる」(p.152)――これが、ビオンの「もの想いreverie」である。すなわち、言語から始まって相手の世界に入り、「声の捉え難さと微妙さ(p.156)を聴き、fear(恐怖)とdear(愛しい人)の間に揺れる情緒を感じ、生きたままの埋葬が進行しているのを経験することである。オグデンはここで、自分の想念に気を取られることなく没頭している。詩人の言葉は、解凍defrostを求めている。あらゆる経験がそうであるように。
以後彼は今日に至るまで、ウィニコット・フロイト・ビオン・サールズ・・・を読む一連の論考を発表している。そこでは、このreverieが存分に発揮されている。本書はそれ自体で、そしてこの後の展開と併せて、精神分析特に解釈の際に分析者が何を経験しているのかについて、洞察と刺激を与えてくれるだろう。
(岩崎学術出版社、2006年、202頁、3500円+税)
文献
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Jacobs TJ (1993): The Inner Experiences of the Analyst: Their Contribution to the Analytic Process. International Journal of Psychoanalysis 74: 7-14
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