対象関係論から見た自己心理学 (イマーゴ96-6)
福本 修
1.
各種精神療法の坩堝と言っていいロンドンでは、精神分析やユング心理学は当然として、ラカン派・アドラー派からオルタナティヴ(アロマセラピー・再誕生rebirthなどなど)まで、国際学会を開きセミナーを催して幅広く活動している。その中で不思議なことに、唯一自己心理学については聞かない。精神分析の内部に限っても、イギリスの三派(クライン派・独立派・現代フロイト派)の間で見解の開きが薄れてきているのに応じて(但し理論的・技法的な差はまだ大きい)、ラカン派との対話が見られないこともないが、自己心理学には関心が持たれていない。これはイギリス流の精神分析の影響が強いヨーロッパ諸国で共通した態度だが、なぜだろうか。まずこの点から少し考えてみよう。
一つには、<アメリカ流の生活the American way of life>に対するフロイトの懐疑を典型とするように、現実適応に価値を置くアメリカ文化に対する一般的な構えが反映しているかもしれない。この場合、自己心理学が彼らの考える意味で精神分析的ではないという前提があることになる。実際、アメリカの伝統的精神分析からも似たような批判があるようだ。カーンバーグKernbergはコフートの治療を、本質的に支持的と見なしている。もしそうならば問題は、何を支持しているかだろう。自己心理学は、コフートを中心とするシカゴ学派が六十年代から七十年代に掛けて徐々に発展させた。社会学的見取り図を言うとこの時期には、アメリカの自己像の内包する矛盾が明らかになり、誇大的な理想をそのまま維持することは難しくなった。<自己Self>の傷つきを癒し、野心ambition・技能skill・理想idealをその成熟した姿の要素として改めて肯定する自己心理学は、自己を常に進歩と達成に駆り立てる開拓者の不安frontier spiritを理解することよりも、現実とのギャップを微調整する役割を任されたのかもしれない。没落不安の裏返しであるときに突出する民族主義との同一化を除けば、ヨーロッパにはおそらくこのような誇大的自己像もそれを満たす社会的期待と圧力もない。(ちなみに乳児の観察でも、強調される点は非常に異なる。タヴィストック方式が不安とその防衛・脆弱性をまず見るのに対して、より「科学的」な観察は、赤ん坊の潜在能力と達成を強調する。)ただこれは大雑把な印象であって、日本では大いに関心を持たれ翻訳紹介がなされているにしても自己心理学がアメリカでどれほど実質的な地位を占めているのか私は知らないから、それ以上の意味はない。
それからイギリスの臨床家は、いつも症例から学ぼうとしていて相互研鑽も惜しまないが、いわゆる研究者researcherと違って海外の研究に対して驚くほど無関心なことがある。例えば日本では翻訳もされているエムディR. Emdeの仕事が殆ど知られていなかったり、カーンバーグがタヴィストックに話に来たときにも、誰も興味を示さず従って質問をせず、司会者を当惑させていた。後者の場合は、パーソナリティ障害を記述的特徴(症状・行動様式等々)に基づいてあれこれと分類する彼の方法が、「百科辞典的」或いは「人為的」で個々人との交流や差異を軽視していると思われたようである。元々イギリスではパーソナリティを多様な対象関係を含むものとして理解しているので、その障害を幾つかの固定的な特徴によって捉えることはない。倒錯の研究者ソッカリデスCharles Socaridesが講演に来たときも似たような反応で、異常者を正常者から峻別し分類する彼の「医学的」な態度にみな驚かされていた。
ロンドンで自己心理学を見かけないもう少し内在的な理由は、既に類似のものがあるので必要としないという事情かもしれない。つまり、対象関係論特にウィニコットの理論と臨床が、自己心理学の提供するものを既にかなりカバーしている可能性である。どちらも自我心理学から出発し、それに対する批判を含んでいる。醸し出す雰囲気にも共通性があるようで、実際に日本ではどちらも好まれているようだ。しかしまた両者は同じものではない。理論的な枠組みばかりではなく、「精神療法」の作業として理解していることにも大きな違いがあると思われる。次にこの対比を考えることにしよう。但し、私は自己心理学を実地で知っているわけではないから、あくまでクラインを含めて対象関係論の側に立って、私に理解しにくい点も書きつけることになるが、この特集がもっと教えてくれることを期待したい。
2.
コフートとウィニコットに共通している点でまず目につくのは、欲動論からの脱却である。性欲動はもはや葛藤と病理の主な源と見なされていないし、攻撃性も一次的なものではなく、欲求不満からの派生物である。両者にとってもっと重要なのは、依存の正当な位置づけである。どちらも対象からの完全な独立を人間のあるべき姿とはせず、ウィニコットは絶対的依存の状態から相対的依存、独立に向けた段階を認め、コフートは自己対象との成熟した関係を認めた。別な言い方をすれば、これは環境の重視である。グロットスタインJ. Grotsteinの「背景自己対象」と「対人関係自己対象」の考えは、ウィニコットの「環境としての母親」「対象としての母親」に対応している。
関心が「自己」とその成長にある点も共通している。コフートの「自己愛パーソナリティ患者」が示す誇大性は、対象の自己対象機能不全のために病理的に肥大した現象であり治療的に発達が促される「真の自己」ではないという意味で、一種の「偽りの自己」である。コフートの著述を読むと、彼は決して患者の誇大性を助長しようとしているのではないことが分かる。彼は場面によっては、むしろ達成がもたらす不安の方に共感している。
治療においても、治療者の共感不全を主に取り上げるコフートの態度は、「環境の失敗」という外傷状況が治療の中に反復されるとする中間学派の見方に近い。コフートでは共感或いは感情移入empathyがしばしば理想化され、治癒の唯一の因子として捉えられている印象を与えることがあるが、それが相手に代わって内省を行うことで内界を理解しようとする道具であり、受容を中心としつつ相手からのフィードバックの過程をも含むならば、十分に限界が弁えられて、極めて妥当なものである。また、波長を合わせることattunementは、どのような流派の治療的関係でも基本なはずで、治療場面でまず交流を経験して、それから必要なとき解釈が加わるというのは、ごく自然である。コフートが「変容性微小内在化transmuting micro-internalization」と呼ぶ、感情移入に基づいて傾聴しエス・自我・超自我といった心のマクロ構造ではなく、ごく僅かずつ患者の自己の欠損を取り上げ解釈によって新しい構造を作り出す作業は、対象関係論の精神分析と基本的には変わらないかもしれない。おそらく解釈の量は、後者でもそれほど多くはないし、少なくとも再構成的な解釈は、むしろ稀である。いわゆるhere & nowの転移解釈が少なくて、転移以外の場面についての解釈が用いられる点も、対象関係論ではおそらくそれほど違和感がない。コフートは対象の情動的特質(自己対象機能)にあくまで重心をおいて、自己-自己対象関係が成熟することでこの対象がより客観性・現実性を増す点を重視しないが、彼が言う「適量の欲求不満と解釈を通じた変容性内在化」は、ウィニコットの「対象の生き残りと自己の脱=錯覚disillusionment」を中心とする治療機序と同質だろう。治療を通じて現れるようになる、創造性・感情移入能力・ユーモアのセンスなどを含むコフートの言う自己愛の成熟した形は、ウィニコットの言う移行領域に近いかもしれない。(信仰・自由意思・道徳の問題も扱う点は、ユングに近いところもあるかもしれない。)
彼らは必ずしも同じタイプの患者を見てきたわけではない。一般に、発達や心のモデルを適用できる範囲はどのような人たちからそれを得たかに大きく限定されていて、本当に細部まで普遍的で全知的なものはありえないが、非行傾向の患者を愛情剥奪から理解したウィニコットの見方と、コフートの自己愛行動障害の理解とは重なるようである。これにはコフートの分析者アイヒホーンA. Aichhornの影響があるのかもしれない。
ウィニコットでは赤ん坊と母親のユニットを、コフートでは自己と自己対象の関係を強調することで、エディプスの三者構造が見えなくなる点も似ている。乳幼児期に母子関係を中心として見ることは或る意味で自然だが、母子を初めから分離した個体とする(但し投影・摂取同一化によって両者は実質的に交錯している)クライン派の考えでは、母親の乳房と赤ん坊の口の関係を調整する乳首という形で、最初の授乳の場面に既に三者関係の萌芽が認められる。ウィニコットでは背景にいたはずの父親がどう登場するのか明確ではない。コフートでは、両親や養育者が自己対象機能を担う外的対象として考えられているようだが、それら諸対象の間の関係は患者の世界の中で問題になっているようには見えない。実のところ、コフートが対象について論じている部分は少ない。彼の初期の独創性は、自己愛の発達ラインを対象愛のそれと並行して独立に考えたところにある。しかしそのために、自己と対象が対象関係単位のどちらの配座を占めることもあるという対象関係論的な見方から遠くなっている。彼は“良い”自己対象を三種類挙げていても、“悪い”自己対象には触れていない。反論はおそらく、心を実体化し具象化し過ぎるのを避けて、機能の水準で考察しているというものだろう。しかし心は原始的水準ではそのように具象的に働くものだとするのが、対象関係論的な発達論である。
そろそろ相違に関して述べるべきだろう。まず第一に、コフートの発達論は中核自己nuclear selfの成立する二才から始まっているということである。それ以前に関しては、「断片的自己」が遡行的に想定されているに過ぎない。コフートが赤ん坊に破壊的攻撃性ではなく「自己主張」を見る点は、たまたまウィニコットの無垢な運動motilityとしての攻撃性の概念に近いが、赤ん坊が対象をどう発見し世界をどう経験するかという問題を、クラインとは別の形で考えようとしたウィニコットの苦心とは関係がない。彼が「抱えることholding」を代表として論じた母親の機能は、コフートの自己対象機能よりも遥かに早期の自己の成立と発達に関わる。そしてウィニコットの母子は、共生的に見えても根本ではやはり初めから分離している(秘匿された「真の自己」)し、再融合は、もはや「中間領域」を介してしか可能ではないのである。
これはまた、対象とした患者の相違である。ウィニコットはこのような理解を、一方では小児科医或いは小児精神科医としての経験から、もう一方では精神病水準の患者の治療経験から得ている。それに対してコフートの業績は、精神分析の適用を古典的な神経症の患者から、彼の定義する自己愛パーソナリティ障害に広げたことにあり、境界状態と精神病はどちらも対象としていない。自己心理学的観点は、支持的な環境を自己対象機能の提供に配慮しつつ整備するためには役立ち、それはウィニコットの管理分析management analysisに対応する。だが、後者では精神病的なパーソナリティも扱おうとしている点が異なる。
ところで、この程度でもウィニコット的な対象関係論と似ているということは、クライン派とはだいぶ違うことを意味する。自己心理学についての教科書(『自己心理学精神療法:コフート以前からコフート以後へPsychotherapy after Kohut』)を書いたリーR. LeeとマーチンC. Martinは、クラインの投影同一化の概念がコフートの自己対象の概念と似ていると言うが、前者は生後数カ月の妄想・分裂ポジションの主要機制でありコフートの二才以後の発達論と対照はできない。また、クライン派独自の「内的対象」「無意識的空想」「内的世界」などの概念がコフートにはないので、両者を理論として比較してもあまり意味がないだろう。イギリスにおける病理的自己愛の主な研究者はクライン派である。彼らの言う「自己愛パーソナリティ障害」は精神病の防衛を含む遥かに重い病理で、名称以外にはコフートの定義する群と一致点に乏しい。
こういった次第なので、次にはクライン派の代表的な研究者ローゼンフェルトH. Rosenfeldの記述などではなく、代わりに、コフートが『自己の治癒How Does Analysis Cure?』で引用した南米クライン派の短い症例報告を取り上げてみたい。
3.
コフートによればそれは、「誤った解釈」に治療的な効果があった例である。彼がその定式化を変に思っているのは明らかだが、クライン派の臨床全体への批判ではない。
この女性の分析者は、或る面接の終わりに、キャンセルの予定を患者に伝えた。次の回患者は分析者の促しに反応せず沈黙し、引きこもった。そこで分析者は「暖かく思いやりのある語調で」以下のように解釈した。分析者がいなくなると述べたので、以前には良い、暖かい、栄養を与える乳房だった分析者は今や、悪い、冷たい、栄養を与えない乳房となった、そして患者は自分の行動特に言葉を噛むこと、喋ることを抑制することで、分析者を引き裂く衝動から身を守っているのだ、と。コフートが驚いたことに、この「不自然な解釈」によって患者は自由に話せるようになり、顎の筋肉が硬くなっていたことにも気づいた。分析者を噛む空想も言語化し、良い関係を回復した。
ここで起きたことを、コフートは次のように理解する。解釈としては、古典的フロイト派によるエディプスの欲動-葛藤的再構成(例えば「患者は分析者の不在を、母親が父親と性的に関係するために患者を見捨てて自分たちの寝室に行った、と経験した」)も自己心理学的な自己対照機能不全の定式化(例えば「患者は友人でもあった料理人が冷たい母親によって急に解雇されたときのように感じた」)も可能である。しかし、この例のようにそれを即座に与えることは、患者の連想への長い共感的没頭が伴っていないので不適切である。それにしても、このクライン派の分析者による解釈は、患者の自己の状態(自己対象への欲求の活性化)の理解に基づいており、それが語調に反映されているので、コフートが想像したフロイト派の介入よりはずっと良いのである。欲求を承認するがそれに沿って行動化しないことで、分析者は「適量の欲求不満」を与え、あの解釈で自己と自己対象の間の共感的つながりを再確立した。しかしながら、理解understandingはこれでいいとしても、コフートから見ると、説明explainingが本当に起きていることを述べていないので分析的治療としては不十分である。
以上に対して、一つの読み方としては私に異論はない。彼の言葉は経験に近くexperience-near、患者が受け入れやすい。「適量の欲求不満」は妥当な尺度で、自我心理学にありがちなように分析者が黙ってばかりいる、という弊害が防げるだろう。では、すぐに「乳房」を持ち込んだのは、「誤った解釈」だっただろうか。1950年代にはイギリスでも、クライン派の分析者は分裂病者にも解剖学用語を使った解釈を与えていたと言う。だが現在主流のクライン派の間では、思考のモデルとしてはともかく、大人の患者にこのような用語法で語り掛けることは不適切と考えられている。この特殊な用法は、ラテンアメリカの心性とメルツァーの影響が相俟ったものと見なされることだろう。
しかしながら、このようなステレオタイプの批判で終わりにせず、別の可能性−−先のやり取りが疑似分析pseudo-analysisになっている可能性を想像してみよう。上述の場面以外は分からないので、これはあくまで思考実験である。一番目につくのは、コフートを驚かせたように、最初の引きこもりからあの解釈で簡単に良い関係を取り戻した点である。南米の人にとってもやはり「乳房」等と言われることは本当は奇妙、少なくとも特殊だとしよう。すると患者は妙な言葉を、非常に具象的に護符か治療者の身代わりのように受け取って、それを所有することで分離を否認しているかもしれない。想像を拡大して、患者にはスキゾイドの機制があるとしよう。概して、スキゾイドは孤高を保ち自分の内界に没頭しているというイメージがあるかもしれないが、「自分の内界」に見えるものは実は、自己愛的な投影を受けて変質した対象を含んでおり、彼らは空想によって、その世界で対象に潜り込み分離を否認している。「乳房」と治療者から聞いて、患者は自己の一部を彼が共有していると想像した治療者の世界の中に侵入させ、キャンセルは問題とならなくなる。結果として、分析は自己のあり方の理解ではなく、防衛強化に用いられる。
この理解の仕方の背後には、まず理論的には「投影同一化」及び「部分対象関係」の考え方がある。更に大きな前提として、心の具象的な地図がある(メルツァーの言う<地理的次元>)。上に多少とも対応する例を考えてみよう。一才前後の赤ん坊を観察していて、その赤ん坊が本をぱらぱらめくったとしよう。文脈に応じてさまざまな理解ができるだろうが、一つは、赤ん坊が本に自分の心の一部を投影することで、母親の心の中に入っていると無意識的に空想している可能性である。そこでページを破ったとしたら、母親の中の赤ん坊への攻撃が想像される。このような理解は、赤ん坊についての認知心理学や神経生理学の科学的な所見を重ねても増える見込みがない。妥当性は、解釈を通して初めて明らかになる。
自己心理学の道具立てでは、以上のような場面を想定しにくい。例に戻って、患者があの解釈には反応しなかったとしよう。治療者は自己対象機能を提供すべく、更に努力を重ねるべきだろうか。患者のしていることに対象関係論から注目すると、今度は患者の方が無反応な母親になっている、と見ることもできる。これをすぐに患者に指摘するかどうかは別問題で、スタイナーも言う通り、重症で傷つき易い患者には「分析者中心の解釈」から始めるのが一技法である。しかし、最終的に投影同一化は引き戻され引き受け直される必要がある。そしてそのためには、作動中の対象関係の両極が見えていなければならない。
では、「変容性内在化」は自己と対象の両者を取り上げて変化させているだろうか。自己・対象を現実の世界のことではなく、表象内のこととして処理しようとする点では自我心理学と同じだが、コフートは自己の一部が自己の外部に位置づけられているような事態を想定していなかっただろう。だから、対象(自己対象)を理想化している自己の分裂排除されたものとして、被害的になっている自己をどこかに予想することもない。自己破壊的傾向の強い患者には、破壊性の陰性の極にコメントする必要がある。また、自己の諸部分が関係しあうという考えも持っていなかったようである。この考え方が有用なのは、現実の対人関係でのサドマゾを取り上げてもせいぜいが転移外解釈、悪くすると道徳的価値判断になるのに、患者自身の中で自己の或る部分と他の部分との間の葛藤とそれを眺めている第三者(=治療者)の問題となり、被害者が逆転して加虐者になること、それを現に自分が自分にしている可能性を論じられる点である。治療者が共感不全を起こしているように見える場面でも、この文脈では患者の対象関係が実演され、治療者を巻き込んで行動化live outしていると考えられる。
自己心理学は、自己と自己対象との触れ合いという特殊な通路を使って構造欠損の回復を行う。しかし障害が重度の場合、当座に利用できる“良い”自己対象機能を見つけられず、或いは悪い関係に乗っ取られているので、自己対象転移が成立せず、治療の対象にならないのではないか。自己心理学は“良い”関係が優勢の場合有効だが、それ以外の場面では見通しを立てるのに使いにくい、というのが印象である。
4.
最後に、転移について目につくことを簡単に述べておきたい。コフートの提唱した転移を具体的に見る前に、大きな特徴を比較すると、同じ<転移>という言葉を用いていても、対象関係論で意味するところとだいぶ違うことが分かる。コフートでは転移は一種の発達過程で、自然に起きてくることである。解釈のタイミングは、「適量の欲求不満」或いは不全のあとである。コフートの患者は比較的安定していてかつまとまっているので、このペースで間に合うのだろう。しかし対象関係論で転移と呼ぶとき、対象関係の瞬間・瞬間moment-to-momentの移行を含んでいる。イギリスで解釈のタイミングが早いのは、移りゆく乳児的水準の原始的転移をhere & nowで理解しつつ意味を与えていくからである。治療者は患者が自己愛的延長と見なして病理的均衡equilibriumを外在化させる前に介入する。コフートで自己対象機能が徐々に取り入れられているさまは、治療者を含む外的現実を支持的環境として巻き込んだ、パーソナリティの再組織化reorganizationである。
コフートは自己と自己対象の間の自己愛的転移として、鏡映転移・双子転移・理想化転移を発見した。晩年には彼はそれらを原始的な融合転移merger transferenceからの自己の三つの方向への発展として理解し、自己愛転移と呼ぶのをやめた。それらは、過去を反復しているかどうかという意味では転移ではなく、自己対象が呼応すべき自己対象機能として整理された。クライン派の考えでは、理想化と迫害不安は連れだってやってくるもので、それは患者の病態水準に関わりのないことだが、自己心理学はそれを陰性転移として扱わず、いわゆる陰性転移は、治療者側のこの機能の不全から主として理解されるようである。融合転移が原始的であっても、@自己の欲しない一部分を対象の中に捨てるA対象を支配・攻撃するB対象との分離を否認するC前言語的な経験をコミュニケートするD精神病的に瓦解した自己の構造を排泄するなどの機能を持つ投影同一化とは、同じではない。せめて「良い」融合と「悪い」融合の違いが(自己対象の機能ではなく)患者の心的構造とどう対応しているのか知りたいと思うが、おそらくこのような観点はないのだろう。
それから、以上はいずれも二者関係に見えるが、そこに危険はないだろうか。コフート自身は、鏡映転移の中に母親による情動的な調節regulation−−一種の包容containing−−を含めていたり、過剰な理想化に対して隠蔽記憶の可能性を示唆したり、臨床的には優れた理解を持っていたようである。しかし彼の書いた言葉だけから理解しようとすると、誤解しかねない表現がある。
その代表的なものは、鏡映転移である。この言葉は、彼の意味する実態を指していない。本当の鏡が提供するのは、自己が投影した像そのままである。これは母子関係で言えば、乳児に対して情動的に全く反応せず未消化でエコーを返す、抑鬱的な母親の場合である。コフートでは、単なる反復でなく変奏を含んでいる。精神療法においても、治療者が患者の投影像のままであれば、フロイトが『ダ・ヴィンチ論』で述べたような自己愛的対象関係を維持することになる。
タヴィストックでうるさく言われることの一つは、精神療法の本質が自分と異質なものとの交わりsymbolic intercourseなことである。もう一つは、三者関係が常に最初から存在することである。おそらく単なる二者関係というものはなく、それを支える第三者すなわち構造が意識されていないだけである。二者関係の中では原理的に、患者がどこまで正しいか、迎合しているか不当な要求をしているか決め難い。二者関係の安定には、距離を何らかの形で調節する第三項が不可欠である。治療者の直観的な理解は、実は内的なカップルに基づいている。純粋な二者関係はむしろ病理的で、治療者がそう思うときは、現実を何らかの形で否認していないか、患者の病理によって万能的な母親の役割をとらされていないか考えた方がいいかもしれない。しかしこれは、また別の機会に展開すべき主題だろう。
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