ボロメアンの結び目は解かれるか (イマーゴ91-4)
−−『ラカンのトポロジーと分析の臨床』−−
福本 修
ラカンが没してから10年経ったが、関心は静かに広がり、今日では実際の精神科的な事象との関連が重視されている。ただ、今でも精神病論の紹介が中心で、一般的な分析治療の臨床がどう行われているのかは、まだ明らかではない。しかしその機会も増えていくことだろう。
それに対してラカンの理論の全体的な展望は、既に得られているとは言い難い。J・A・ミレールは、昨年の東京講演でラカンによる精神病論として三つ挙げている。一つは「父の名の排除」を中心としたエディプス・コンプレックスの言語学的形式化、二つ目は「主人の言説」を巡るもの、そして三つ目が「ボロメアンの結び目」を巡る議論である。われわれが馴染んでいるのは最初のものだが、フランスでは他の二点についても夥しい量がラカンとその周辺によって論じられている。ここでは第三の観点の一例を取り上げよう。
一応書誌的なことを述べておくと、トポロジーを初めて導入したセミネールは1960-61年の「同一化」であり、ボロメアンの結び目は1972-73年の「アンコール」である。その後のセミネールの一部はOrnicar?に再録され、日本語では『ジャック・ラカンの書』(小笠原晋也著、金剛出版)による紹介や、『ラカンと哲学』(アラン・ジュランビル著、産業図書)で解説を読むことができる。
"Topologie lacanienne et clinique analytique"(Jeanne Granon-Lafont, Point Hors Ligne,1990)は、表題の通りトポロジーと分析の臨床との関係を、具体的な臨床場面の提示とともに論じようとしているものである。著者はこれに先立ち、"La Topologie ordinaire de J.Lacan"(Point Hors Ligne,1985)を書いている。(前著はラカンのセミネールの出典を挙げながら、トポロジー論の直観的理解を解説している。)
著者はトポロジーを、主体・無意識・パロール・対象aといった諸要素の関係に基づく構造論的な探究の延長にあるものとして理解している。トポロジーは本来の幾何学的な意味では、具体的な図形から抽象された「位相不変な性質」を研究する。これが精神分析に関わってくるのは、穴・面・縁・・・の諸関係、構造がそれらの諸要素の関係を表しているとされるようになるからである。主体や欲望の動きは、トポロジー図形の上に位置づけられる。想像界・象徴界・現実界は環――すなわち穴と縁によって表現され、それらの関係は結び目のトポロジーとして考察される。「精神分析で実際に行っていることは、穴に基づく構築とその縁の操作に他ならない」。
著者はラカンが用いたトポロジーを、二つの系列に整理する。一つは、メビウスの帯、円環(トーラス)、クロス-カップ、クラインの壷である。そこにはメビウスの帯の縁である内部の8の字形が共通している。そこに切れ目を入れると、面が生み出される。もう一つは結び目である。その構造に応じて、縫合や補填がなされる。前者は、パロールによる分析者の行為と、それの心的現実への効果を直接表現するのに役立つとされる。後者はより長い期間の、治療の方向に関係している。
実例として、精神病論でもある「ボロメアンの結び目」の方を見てみよう。「補填」(supple´ance)の概念は、Joyce論で余りにも有名である。実際のセミネール(1975-76)"Le sinthome"は未公刊だが、Ornicar?及び"Joyce avec Lacan"(Navarin,1987)にその一部を見ることができる。
破断(rupture)と縫合の展開は、ボロメアンの結び目(図1)の中心構造から得られる。象徴界(S)と想像界(I)の重なりは、「意味」の現象の領野であり無意識として穴で表現される。象徴界と現実界(R)による穴は、「性的関係の不可能性」とそれを補填するファルス享楽を表わす。想像界と現実界の重なりは、他者(Autre)が穴であることを示す。中心の@は、対象aである。
(図1)
その三つの交差を縫合した三つ葉形が図2である。それは自我のパラノイア構造の単一性を表わし、意味・性・他者の穴は塞がれている。「自我」は縫合の結果であり、補填として病理を顕在化させないばかりでなく、@を捉えることによって享楽を保証していることを示す点で、図は「自我」理論を明確にするのである。
(図2)
縫合の破断は穴を露にし、限界づけられていた意味・性・他者に無限の拡散を生じる。これはまさに精神病的事態であり、それを囲おうとする病理的な縁が現れる。IRが破断すれば、他者の享楽が氾濫する。SIでは、妄想が無意識の想像的内容を露呈させる。SRでは、性的関係(近親相姦)の実在を示している。それに対し"治癒"像はまた別の図(図3)で表わすことができる。
(図3)
紙幅が限られているので、総論に戻るとしよう。おそらくシニフィアン・シニフィエといった術語が登場した当初理解されにくかった以上に、トポロジーとの関連は分かりにくいだろう。私は逆説的ながら、ラカンの表現がトポロジーと殆ど関連性はないが何か本質的な直観を含むものとして理解されたとき、その意味が明らかになるのではないかと予想している。それはラカンの説いた言語的構造が、術語は共通でも言語学自体には余り関係がなかったのに似ている。
理論にとって最大の課題は、メタ言語が不可能な状況である。ラカンの変遷、理論的産出もまた、彼の立場では症状であり、トポロジーは"症状の浄化"である。
しかし問題ははっきりと残る。言語的説明に置き換えられる記号の場合、経験的言語と操作概念が地続きなので、部分的な整合性は常に得られるし、ズレが明確になる辺境も判然としない。ところがトポロジーには、精神分析的な経験との接点が殆どない。入り口と出口の絵解きとしては面白いが・・・
トポロジーはメタ言語ではない――では、語らず、示すと言うのか。この位置づけは曖昧である。これは神秘的な「野を開く鍵」かもしれないが、ニュートンやアナグラムに専心したソシュールが罹患した、不毛な隘路という晩年の病かもしれないのである。
ただ、その判断は営為の内在的な展開を突き詰めた上ですべきである。誰もまともに手をつけないうちに水を掛けてしまうのは本意ではない。大変可能性が豊かな領域だとは言えないが、ソシュールに対するスタロバンスキー程度には専念しないと、彼の<思想>と<人生>を語ることはできないだろう。
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