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書評: |
ジアナ・ウィリアムス著 『内的風景と異物 摂食障害とその他の病理』
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代官山心理・分析オフィス 福本修 |
本書は、1997年からタヴィストック・クリニックに属する臨床家たちの仕事を中心にして編集・出版されるようになった、Tavistock Clinic Seriesの一冊である。このシリーズはすでにフランス語版・イタリア語版が出始めている。機会があれば他の本も紹介したいが、同時に刊行された三冊のタイトルと主題に取りあえず触れておくと、児童・家族部門の児童精神療法者たちを中心とした『子供の精神病状態Psychotic States in Children』・家族療法家たちによる『複数の声Multiple Voices. Narrative in Systemic Family Psychotherapy』そして成人部門の精神分析者を中心とした『理性と情念Reason and Passion. A Celebration of the Work of Hanna Segal』であり、他に何冊かが本年[1998]の出版を予定されている。それらが多くの著者の寄稿による論文集であるのに対して、本書は、ジアナ・ウィリアムスの25年に及ぶ仕事から編集されたものである。その大半がイタリア語で発表されていたので、英語圏の読者にとっても初めてまとまって読む機会となっている。
著者はタヴィストック・クリニックで訓練を受けた精神分析的児童・青年精神療法者であり、現在は同クリニックの青年期部門のコンサルタントである。彼女の臨床的・理論的バックグラウンドはクライン派ことにMeltzer Dのそれにある(実際に縁戚関係にもある)が、そこに発達論的パースペクティヴが盛り込まれている。彼女は1987年から青年期部門で摂食障害ワークショップを開いており、本書はその成果でもある。表題の中の「風景landscape」は直ちに、Meltzer Dの言う「地理的次元」、すなわち投影同一化を中心とした心の具象的な在り方への理解を思い起こさせる。
本書の主題は,「依存的関係を内在化する際に他者から取り入れられないこと」(序)という、基本的な対象関係の障害にある。「依存関係を内在化する」ことを具象的に言い換えると、内的世界において自己の両親となるカップルの内的対象(良い対象)、ビオンの言う「容器container」を持つようになること(第2章)であり、「他者からの取り入れ」ができないことは、内的世界ひいてはパーソナリティの成長の深刻な阻害に通じる。Bion WRの見取り図はその中核にあり、本書はアルファ機能・包容(containing)などの概念の臨床的な意義を知るのにも適している。著者のジアナはそれに加えて、摂食障害をこのような一般的文脈に位置づけることで新しい理論を提供しようとしている。
成長することは一般に、経験を通じて学ぶこと、すなわち対象と依存的関係を持って初めて可能となる。しかし現実の生きた対象は空想の対象と違って自分の思うままになる存在ではなく、そこにはさまざまな苦痛が伴う。それを避けて自足した状態を作り出すことは可能だが、現実からの遊離を生む。そこには、どのような内的風景があるのだろうか。ジアナは、友だちを作らず教師とも関わらないで周囲を心配させた14歳の女性の治療を例に描写している(第1章「子供の内的世界」)。彼女は『不思議の国のアリス』のチェシャー猫のように捉えどころがなく小馬鹿にした態度で、不確かさや不安を感じるのは治療者ばかりだった。治療者はそれを、不確かで頼りにならない内的対象への同一化として理解した。それは対象関係へと展開され、治療者がチェシャー猫のように知覚されるようになった。次に現れたのが両親の代わりをするヌイグルミ熊のカップルで、それはいなくならない代わりに生命を持たず、成長のモデルを提供しなかった。また、彼女の好きな屍理屈を操るハンプティ・ダンプティは、治療に反対する自己愛的な部分である。このように独自の登場人物たちと対象関係を持つ内的世界は、あらゆるパーソナリティの基底にあると考えられるが、特に取り入れが困難な患者は如何にしてどのような世界を持つのか、が本書の問いである。
第3章「二重の剥奪」では、生後2ヵ月で施設に預けられ、2歳まで転々としてから里親に出された少年の治療を素材として、環境による剥奪とそれに適応するための防衛がもたらす内的剥奪が論じられる。少年は2歳以後里親の元で育てられたが、盗みや非行を重ねるようになった。実母の死を知ってから特に素行不良になったため里親は養育を放棄し、彼は施設に送られた。彼が治療を受けることになったのは、ナイフで周りの子供たちを脅して震え上がらせたからだった。しかし彼は無感情だった。彼は治療が始まってからも自分の外見の手入れに没頭し、治療者には無関心だった。ジアナは壁を前にして途方に暮れるような逆転移感情と彼のこのコンタクトのなさから、聞く耳を全く持たない(そして実際に彼を置いて去った)母親を前にした子供の気持ちと、彼がそのような内的対象を理想化し同一化していることを理解した。この同一化はさまざまな苦痛から彼を守るが、同時にか弱さや欲求・依存の感情は投影排除されて、内的な剥奪が生じていた。治療関係が深まるにつれて、暴力はセッションの中に持ち込まれるようになり、ジアナは彼の攻撃と内的対象の被る危害・彼の内的世界の断片化をつなげて取り上げることができた。ジアナは治療者の限界をきちんと共有することが有益であると考えている。なぜなら、治療者ができるのは内的な剥奪を治療することであって、里親として外的剥奪を補うことではないからである。また、焦点はかつて何が起きたかではなく、here & nowで治療者と関わることにどのような困難を持っているかにある。外傷に精神分析的な意義があるのは、それを核としてパーソナリティが再編されて病理が結晶し、成長を不可能にするからである。
Rosenfeld Hが提出した「内的マフィア」あるいは「ギャング」の概念は、行き詰まり状況にあるパーソナリティの病理的組織化の一例である。マフィアは破壊的活動を理想化し,中毒させる誘惑的な力によってメンバーを悪に染める。悪の魅力に較べれば、良い対象は凡庸である。それは発達的にはMeltzer Dが指摘した思春期の心性である。メンバーは忠誠を誓う限りで保護を提供されるが、実体は恐怖による支配である。だが依存に伴う抑欝感が絶望的なものに感じられる者にとっては、それは防衛として役立つ。ジアナは「中毒的関係」を、「依存的関係」と対比させている(第4章「ギャング力動について」)。第5章「自己評価と対象評価」では、被虐的態度と抑欝に隠れて対象の価値に攻撃を加える病理的自己愛組織が論じられる。ジアナはFreud Sの「鼠男」の症例を取り上げ、パーソナリティの破壊的な部分による内的対象への絶え間ない攻撃(これがメランコリーの本質である)に対して「再保証reassurance」が如何に無効であるかを示す。Here & nowの意義は、ここにも見られる。破壊は現に今も起きており、それを取り上げないのは犯行現場を見逃すことに等しい。
「取り入れ」の最も早期の形態は授乳である。今日では超音波エコーによって胎児が胎内にいるときから指しゃぶりしたり羊水を飲んだりしていることが知られており、乳児が母親から母乳を受け取ることは、他者への最初の基本的な依存である。ジアナは乳児観察から例を引き、そこでの困難に乳児と母親がどう寄与するかを論じている(第7章「小食家たちpoor feeders」)。ある乳児は、授乳の場面で自分の舌・口・指さらには拳まで加えるようになった。母親はそこに反抗的態度を見て気を挫かれ、乳児が飲物で喉をむせ返らせている時も、わざと吐き出していると受け取った。この赤ん坊は明らかに気難しいが、母親が突き放してその気持ちの包容containingに失敗することで、事態は悪化する。ジアナはこの状況に、摂食障害者との治療の転移−逆転移関係を重ねて見ている。乳児/患者は自分のみを頼みとするようになり、慰めの源を自分でコントロールして対象を不要とする。絶望と無力感は母親/治療者に投影される。そこでは対象を失う恐怖はない代わりに、情緒的な成長も阻まれている。精神療法の一つの課題は、 この乳児的部分との接触の回復である。
このように問題の起源は極めて早期でありうるが、著者は乳児/摂食障害者の困難を先天的素質に帰着させるのではなく、依存の極端な否認という膠着状況に至る力動的な変遷を素描しようと試みている。ジアナはその最早期の状況を、本来の乳児と母親の関係の逆転として捉える(第8章「『容器/内容』関係の逆転」)。すなわち、乳児の原始的な情動を受け止め消化して返す容器として機能すべき母親が、逆に、乳児の側を投影の受け皿として用いるという逆転である。その結果の一つは、子供が母親の役割を引き受けることによって、自分の欲求を否認することである。この逆転には、「全てを与えることができる」という自己理想化と万能感がある。この関係様式では、対象の機能に対して価値が与えられていない。親による過剰な投影の結果のさらにもう一つの可能性は、「不安を投影する対象」への同一化である。ジアナはこの対象が持つ機能を、ビオンが提唱した混乱を整えるアルファ機能に対して、不安と混乱をまき散らす点から「オメガ機能」と呼んでいる(第10章)。ここで敢えて「アルファ機能の逆転」とは別の造語をしているのは、著者の指しているのが「結合への攻撃」や「倒錯的結合」ではないからである。著者はおそらく妄想分裂ポジションですら達成であるような、それ以前の原始的な水準を問題にしているが、摂食障害の場合、倒錯的結合もまた大きな問題であると思われる(筆者は別稿で,「破壊的依存」という用語によってそれを示唆した)。もう一つの結果は、投影を受け付けない不浸透性の対象と同一化することである。このとき無力感と苦痛は対象の側に排除されている。ジアナは、治療者がこれに類似した治療状況において拒絶され求められていないと感じることに、投影同一化による患者の気持ちのコミュニケーションを認めている。
しかし、摂食障害者の防衛には独特の頑なさがあり、接近を容易に許さない。著者はそれを理解する枠として、「ノー・エントリー・システム」の形成を想定する(第9章)。それは、親の投影の受け皿にされた子供が、迫害的な異物のように侵入してくると感じられる投影を遮るために発達させる防衛である。〈容器−内容〉関係が健康で成長促進的であるのに対して、著者はその病理的形態として、〈受け皿receptacle−異物foreign body〉を挙げる。異物は、栄養としてではなくむしろ迫害するものとして経験される与えられたものであり、恐れられ締め出される(第11章)。その起源は、両親の投影である。言い換えれば、著者は拒食症状の背後に侵入される恐怖を見ている。異物は初め身体内に位置づけられているが、二者の間の依存関係がある程度発達すると、それはエディプス状況の第三者の位置を占めるようになる。
以上、本書を通読し簡略ながら要約紹介を試みた。本書は摂食障害について決定的な見解を披露するものではないが、患者の症状や行動をあくまで対象関係から、つまり何に同一化しているか・何を自分の内的対象にしているかなどの観点から理解しようとしている。読者は豊富な臨床記述とその対象関係論的な見方によって、強く刺激を受けることだろう。
Gianna Williams: InternaI Landscapes and Foreign Bodies. Published in 1997 by GeraId Duckworth & Co. Ltd., London.
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