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書評: |
バゴーイン&サリヴァン編 新宮一成監訳・上尾真道・徳永健介・宇梶卓訳
『クライン-ラカン ダイアローグ』 |
代官山心理・分析オフィス 福本修 |
本書は、The Klein-Lacan Dialogues, edited by Bernard Burgoyne & Mary Sullivan, Rebus Press, 1997の邦訳である。本書の元は、THERIP(The Higher Education Research and Information Network in Psychoanalysis)が企画しロンドン北部で行なわれた、同名の討論シリーズである。そこでは毎回クライン派とラカン派の発表者が各一名出てそれぞれ短い講義をし、続いて講師の間およびフロアとでやり取りがなされた。私はたまたまロンドンに滞在中で、うち3回には出席したのでその時の雰囲気を知っているが、それはまたあとの話としよう。
一冊の書物にまとめるに当たり、元の企画にはそれなりに編集上の工夫が施されている。主題の順序は、実際には1995年1月の「転移と逆転移」に始まって「技法と解釈」「セクシャリティ」「無意識」と行なわれたのに対して、本書では冒頭に「児童分析」が据えられ、「解釈と技法」「幻想phantasy」「セクシャリティ」「逆転移」「無意識」と取り上げていく。巻末では両派の大御所、メルツァーおよびロランの見解に触れることができる。
ではこのような配置によって、両派の対話はどのようにして進んだか。論争はともかく、理解や明確化は果たされただろうか。クライン派の論者が高名な臨床家や訓練分析者を揃えているのは地の利だとしても、ラカン派の方は、臨床経験も理論的な考察力も同格とは言えないメンバー構成である。事実、これはラカン派に典型的ではあるが、彼らの誰一人として自分の臨床素材を詳細に論じることはなく、ラカンがどう言ったかの講釈に終始している。討論を聞いた参加者の一人はやり取りを、「一面土に覆われた庭からやって来たばかりの女性」と「図書館であくせく本を読む男性」の対話、と評している(邦訳p.175)。どちらがラカン派でどちらがクライン派かは、言うまでもないだろう。女性の方が「花々の学名にも通じ」つつ「その知識と経験はやはり自分が扱い続けてきた植物に根ざして」いるのに対して、男性の方は「たった一つの本、ラカンというとても難しい本」しか読もうとしない、と言われてしまう。そのような態度は中世神学を連想させるが、その意味では、そこにスコラ学的な方法の洗練は認められる。だから対話は成り立たない、しかしラカンという土俵の中に入れば、さまざまなことを教えてくれる。こうした男性たちは、現に「精神分析的研究psychoanalytic studies」と呼ばれる領野を形成して、それを教授している。ところでその研究は、実際に臨床を行なっている人たちと話が噛み合わなくても可能なのだろうか。換言すれば、同じく<精神分析>の名称を使用していても、同じものを指しているのだろうか。次に論考を個別的に見てみよう。
ラスティンは、「クライン派の伝統における子どもの心理療法」を論じている。彼女は、クラインの治療場面の設定と遊びの導入によって子どもの内的世界が理解可能になったことを説明し、今日の臨床訓練と教育において「幼児とその母親を観察すること」が不可欠であると言う。そして実際の観察記録を挙げて、母子のさまざまな情動状態ばかりでなく内的対象の動きがそこに読み取られること、観察者もその一部と化して経験することを説く。それから彼女は、売春婦の母親から2才半のときに離されるまで虐待を受けてきた、12才の男児の治療を描写する。彼の情動は、激しい行動化を通じて治療者に投影される。彼女は、そこで「未消化のままの圧倒的な苦しさ」に持ちこたえて何が起きているかの理解へと進むところに、クライン派の分析の特徴と功績があると述べる。乳幼児観察が分析訓練の基礎であるのは、その一端を経験するからである。
一方ラカン派のベンヴェヌートは、赤ん坊の依存が展開させる弁証法の理解には母子の双数的関係ではなく父・母・子の三角形を要すると論じ、クラインのシステムでもそうであることを指摘する。これは、対象関係論がもっぱら母子関係論だと思われていた時期に意義のあった批評だろう。彼も母子観察の例を挙げるが、すぐにそれを「欲求」「欠如」「欲望」などの概念でまとめ上げる。そこで観察が少なからず捨象されるのは「ラカン理論における幼児」の例示としてはよいとして、どう臨床と結び付くのだろうか。討論でラスティンは、「厳密に定められた構造から離れては分析作業を行なうことはできない」と注意を促す。面接構造を守って規則的なセッションを持つことは、法としての父親の機能を介在させることなので、クライン派において父親は不在どころではない。彼女はまた、ウィニコットのコンサルテーションのような作業は精神分析をクリエイティヴに利用していても、「それは精神分析ではない」と明言する。では何が精神分析なのか。ラスティンは言う。「本来の分析は、あらゆる努力の場である転移と逆転移に依拠するものだと私は思うのです」――これは治療構造の重要性とともに、精神分析とは双方が経験するものなのだ、ということを表している。そのことが明確になるのは、どちらもが欠けている、つまりセッション時間が不定で説明概念ばかりが過剰に見える、ラカン派との対比のおかげである。
対するベンヴェヌートの応答は、「変動時間セッションはラカン派の技法の一つである」と言うのみである。それにしても、セッションの長さを決めるのが分析者であるならば、いかに誠意を持って区切りscansionを感知したとしても、恣意的な切り取りとの区別が原理的に困難ではないのだろうか。実際に留学した日本人諸氏から聞くところでは、待合室に何人かいて、治療者は時折確認しながら面接し、診療の終了時間は大体いつも同じだと言う。これでは適当な切れ目で話を止める精神科一般外来と何ら変わりがないことになる。しかしそれは本書の外からの情報なので、ラカン派の主張を聞くべく、次の項に移ろう。
「クライン派の技法と解釈」を論じるブロンスタインは、ストレイチーの引用から始める。それは今や皮肉にしか読めなくなりつつあるが、こう書いてある:「規則は、その根拠を正しく理解し自分のものとしたときにのみ価値がある」。また、「問題に精通することは、臨床経験からのみ得られるのであって、書物からではないということを、フロイトは主張して止まなかった」。そういうこともあって、またクライン派の常として、彼女は臨床素材の提示を重視したいが、ラカン派との折り合いから、まずクライン派における解釈と技法の変遷を述べる。そこで確認されるのは、クライン派にとって転移が投影同一化を通じた無意識的空想の外在化であり、解釈はそれを探究して内的対象関係に働き掛けるものだということである。続く彼女の実例は複雑で簡単に要約できないが、興味深いのは、患者が10分遅刻したセッションであることと、彼女の解釈によって、患者が言わないでいた素材を想起したことである。この10分を行動化として捉えてその意味を考えるためには、面接の時間枠が必要であり、その中で与えられた解釈だからこそ想起につながったのだろう。彼女は、セッション時間を定めないことで分析者が逆転移を行動化する危険も指摘する。
ラカン派の論者バゴーインは、当初からフロイトの関心は「言葉がいかに作用するかという問題」にあり「言葉が解釈の問いの中心にある」のに、それが精神分析運動の発展の中で見失われていったというラカンの主張を繰り返し、モデルとして「ソクラテスの対話法」を紹介する。それの特徴は、「性に関する特定の意見への愛着を緩めさせる」点にある。ラカン派から見た転移とは、そこで「幼児期の破綻した愛の関係」すなわちエディプス的な愛の関係が呼び起こされることである。解釈は自我ではなく、言葉が構成した主体へと向けられ、その歴史を再構成しようとする。ラカンが多義性を頻用するのは、「自我を混乱させる」ためである。それからバゴーインは幻想phantasy(通常「空想」と訳される)の解釈を更に解説する代わりに、シュミーデバーグとクリスが分析した症例を、正確にはそれへのラカンの論評を取り上げる。この症例も行動化を含んでいるが、それは彼らに言わせれば、父や祖父というシニフィアンのネットワークが解釈に欠けていたからである。ラカンに関しては、彼が言語の機能はイメージの機能よりも優勢であると明確にした1950年頃までの20年間は、クラインと多くを共有していたと言う。類似の指摘は「幻想」の項(他の場所で発表された論文を再録したもの。「対話」はない)にもある。リーダーはアイザックスを取り上げて批判し、クライン派の無意識的空想に代えてラカンは言語活動languageを据えたと解説するが、クラインとラカンがどちらも「幻想」を現実性と対比させず、それを組織する役割を与えた点で共通しているとする。だが本当に、本質的な共通性はあるだろうか。ラカン派はクライン派と違って神経症者と精神病者を峻別するし、ついでに言えば、「ヒステリー者」「強迫者」もそれぞれ別種族かのように区別している。
「セクシュアリティー」の項は、両派の理論上の基本的な違いをもっと明らかにする。テンパリーは、ラカン派による女性の精神-性発達論がフロイトの古典的見解に非常に近いことに驚かされたと言う。そして対象関係論が性を表面的な問題と見なしていると受け取られがちなのは誤解であり、特にクラインは本能論者のままだったと述べる。実際に会場では、彼女は自分が独立学派からクライン派に移ったとき、つまり二度目の個人分析で、性が取り上げられる仕方に驚いたと言っていた。クライン派による見解の概説に加えて彼女は、去勢コンプレックスの意義が幼児的全能感の放棄に関わることを指摘する。一方ノブスは、図書館の男性と呼ばれただけあって、ラカン派概念を駆使してラカンのセクシュアリティー論の展開を辿ってみせる。テンパリーによる批判は、それが文化を過剰に強調して身体を等閑に付している、というものである。
続く「逆転移」の項では両派の対比がより鮮明になることが期待されるが、互いに自説の紹介に終わって切り結ばない。ヒンシェルウッドは概念史と既に一般化した「分析者の心を用いる」方法を述べ、対するパロメラは、ラカンにとって分析者の感情は患者の転移が他の場所に現れたに過ぎず、問題なのは分析者の抵抗であると言う。討論は再録されておらず、私が覚えているのも残念ながらヒンシェルウッドが開口一番、「私はこれを引き受けてひどく後悔しているI terribly regret…」と述べたことだけである。しかし最後に置かれた「無意識」の項ではこれまでの主題すべてが扱われており、或る意味で対比を確認できる。アンダーソンは、象徴的結合が素材との格闘の末に思考できるようになることを強調する。ラカン派ではそれはシニフィアンを捉えること、言い換えれば患者との想像的関係に留まらずに患者の欲望を問うことに該当するのだろう。ジェラルディンは、フロイトに訓練分析を求めて言われる通りにしようとまといついた被分析者の例を挙げて、シェーマLを解説する。だが、失錯行為や言い間違いのような単純な例ならばその解析は容易であっても、臨床の現実では“まといつき”か、すれ違いの時間が大半である。ラカンの著作には韜晦癖があってもそれに見合う精妙なテクスト読解もあったが、図式の解説からは自明の指摘しか得られない印象がある。ジェラルディンは発表の冒頭でロンドン地下鉄の常套句「出入口のギャップにご注意Mind the gap!」を意識して、海峡を挟んで行なわれていることに差異があるようなのでMind the gap!と言っていたが、少しもおかしくないので誰も笑わなかった。概して私がラカン派の発表に関して覚えているのは、こうした呑気さである。大きなギャップは、書物と臨床経験の間にある。
巻末には補論として、メルツァーへのインタヴューと、エリック・ロランによるクライン派への論評が載せられている。メルツァーは、英国精神分析協会においてクライン派の養成が雑多となり、ビオンの功績が十分に吸収されていないと批判する。そしてタヴィストック・クリニックでの訓練の基本が理論よりも観察にあること、そのスーパーヴィジョンは訓練生のプライヴァシーを尊重しており、精神分析の技法を学ぶためではなく患者を理解するためにあることを強調する。質問者はメルツァーが現代ロンドンクライン派を批判するのを期待しているようだが、おそらく思惑に反して、「この領野に来る人には、医学を勉強するのではなく、英文学や美術史など、そういった類の人文科学や文学を勉強するようにお勧めします。しかし、哲学はいけません」と聞かされる羽目になっている。ロランはクライン・エチゴーエンのテクストを俎上に乗せて、批判的にコメントする。本の構成としてはそれより、ラカン派にまとまった臨床素材の提示を求めたいところである。
以上のように、本書はクライン派の方の基本的な考え方を知るのに役立つと思われる。ラカン派に関して本書から知られることには限界があるが、両派の対話の試みとして資料的価値はあるだろう。公平のために言うと、学派間の討論はいつも困難で読む側にも不全感が残る。例えば1984年にヘブライ大学で行なわれた「投影同一化」についてのカンファランスでは、クライン派分析者とアメリカの分析者の間で患者の病態水準の理解からして異なっていて、話は噛み合っていなかった(Sandler, J (Ed): Projection, Identification, Projective Identification, IUP, 1987)。ただ、本書にはそれよりも基本的なところでのフラストレーションがある。それは彼らの言っていること書いていることと、実際に行なっていることの間にどれほどギャップがあるのか分からないからだけでなくて、思いがけず感銘する一言が見出せなかったからである。それもラカン派の実状の何かを反映しているのだろう。
(誠信書房2006年、342頁、4000円+税)
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