恵泉女学園大学/長谷川病院/代官山心理・分析オフィス 福本 修
本書は、最初1967年にThe Clunie Pressより出版された“The Psycho-analytical Process”の邦訳である(Karnac Booksから入手可)。著者メルツァー45歳の時のこの著作は、40代前半までの仕事の一端をまとめたものであり、彼が以後クライン派のプリンスとして挙げていく輝かしい数々の業績の出発点となった。原書では120ページ程度という小冊子の分量ながら、その骨太の構想は、クライン派で明示的に述べられていなかった「精神分析過程」についての臨床的知見を、具体性に富む臨床素材とともに展開している。 そこで際立っている骨組みは、「投影同一化」概念を基軸に、その成立から解消までを分析過程の「自然史」とする描写である。自然史は、1.転移を集めること、2.内−外・自己−対象の地理の混乱を整理すること、3.性感領域の混乱を整理すること、4.抑鬱ポジションの入り口、そして5.離乳過程、からなる。転移を集めるという発想の基本には、「全体状況」(Klein, 1952)の理解があるだろう。地理の混乱と性感領域の混乱は、クラインが『児童の精神分析』(1932)で子供の患者に見出した部分対象関係世界つまりは妄想分裂ポジションの、基本的特徴である。メルツァーがクラインの死後公刊された『児童分析の記録』の講読グループを率いていたことが思い起される。これらの整理を経て、良い対象が現れる。それは、取り入れによって対象の価値を認めるようになる抑鬱ポジションと関わる。しかし「入り口」に留まるのは、それが恒常的に達成可能な状態ではないからである。この過程論の卓見は、接触と分離が生じる規模に応じて、一セッションでも、連続した面接と週末休みという週単位でも、学期単位、年単位でも、遂には分離と分析機能の内在化による自己分析の継続という形で、フラクタルな構造を捉えているところにある。別の見方をすれば、このPS←→Dサイクルで挫折はどの時点でも起こりうること、直線的時間は循環的時間の中に盛り込まれ、真の分離経験は終結においてであることが含まれている。メルツァーの後の仕事、特に『閉所』は、このモデルの課題に向かっている。 本書のこうした高度の抽象性と具象性の結合は、その両極を媒介する臨床経験を要請するので、読みこなすのは必ずしも容易ではない。また、解剖学的用語はメルツァーほどに児童分析時代のクラインとのつながりが薄い読者には馴染みにくいのだが、それは分析が中断に終わった彼にとって、「茫然自失lost」しているところから抜け出すための出発点だったのだろう。今改めて読んで目につくのは、彼がアメリカ時代に自我心理学から得たであろう着想である。「設定setting」の創造の重要性や、「パーソナリティの大人の部分」との同盟の強調は、以前にも以後にもクライン派には見られないものである。その意味では彼は、アナ・フロイト派とクライン派の橋渡しを一部行なったとも言えるだろう。しかしもう一方では、ビオンの仕事の評価と取り入れが始まっており、後にはメルツァー語の創造によって、彼の論述はどちらにも似ていないものになった。 理論的には過程に内在する論理展開を、臨床的には逆転移ではなく直観を重視する本書の態度は、相互交流や間主観性に重きを置くアプローチには過去のものに映るかもしれないが、セッションの真実を突き詰めるメルツァーの眼差しには揺るぎないものがある。