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書評:
岡田温司著
『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』

恵泉女学園大学/長谷川病院/代官山心理・分析オフィス   福本 修

フロイトのイタリア フロイトがダ・ヴィンチその人やミケランジェロの作品を論じたり、ローマを遂に攻め落とせなかったカルタゴの将軍ハンニバルと我が身を重ねてローマの夢を見たりと、彼の著作に多少とも親しんでいる人には、イタリアがフロイトにとってなじみ深いことはよく知られていることだろう。また、彼の生涯に関心があれば、ローマには父親との関係ばかりでなく、彼の母親および子守女との関係がそこに影を落としていることも承知しているだろう。だがイタリア文化を踏まえてそれらを系統的に扱ったものは、なかなか日本語でまとまって読む機会に乏しい。本書『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』は、そうした関心に応えようとする好著である。


 本書の著者は、イタリアを中心とした美術史・現代思想についての数々の翻訳と著作を有する、岡田温司(おかだ あつし、京都大学大学院人間・環境学研究科教授)氏である。氏は本書で第60回読売文学賞の評論・伝記賞を受賞している。

 著者によれば、今日の「フロイトへのアプローチ」には、「フロイトのテクストそれ自体」へと立ち戻るか、「同時代のさまざまな文脈――思想、芸術、科学、政治、文化、社会など――の中にそのテクストを位置づける」かという大きく二つの傾向があり、自分の作業はその後者に属すると言う。18世紀には、イタリアへの旅行はゲーテの『イタリア紀行』を代表として、「人文主義的で博物学的な教育の最後の仕上げ」の地だったとのことである。こうした文化史の大枠とともに、フロイトが言及した幾つもの絵画や建築物を取り上げているところが本書の特色であり、同時に掲載された写真で視覚的に確認できることに主要な価値があると思われる。
 
 本書は全六章より構成されている。T・U章の「イタリアからの便り」前篇・後篇は彼の手紙を主な情報源として、年代順にフロイトのイタリア各地への旅行と、その彼個人および精神分析誕生への衝撃を紹介している。19才(1876年)で奨学生としてトリエステの実験所に滞在して以来、生涯を通じてフロイトは20回以上イタリアを旅行し、休暇を過ごしている。注目されるのは、二回目が約20年後であることで、それから毎年のように彼は家族とイタリアを訪れるが、1901年9月にローマまで南下するのに時間を要したことである。それは、『夢解釈』(1900)を完成させ、フリースとの密な交流が終わりになってからだった。

 著者はイタリアが、フロイトにとって「主体がそこに到達しようとしても到達しきれないまま、その不在の中心を回っているような対象」だったと示唆する。フロイト自身、「イタリアに向かってGen Italien/生殖器Genitalien」の語呂合わせをしている。ただ、著者はもう一方で「フロイトのイタリア」を実体化していて、「精神分析と芸術と考古学という三位一体の発見の地」「精神分析の伝授の地」とも書いている。臨床の立場からすると、フロイトを読む際に上記の「フロイトへのアプローチ」の二つの傾向は、実はどちらも周辺的なもので、セッションで何が起きているかが中核的な経験である。その意味では、本書で弟子たちがフロイトのイタリア旅行に同行することが「伝授」と評価されているのは、かなり奇異な記述である。だがここでは、二つのアプローチから何が得られるのかに関心を向けるべきだろう。

 本書のT・U章の叙述は、大半が旅行の概説である。それは、ミケランジェロの<モーセ>像に出会い、ポンペイを訪れ、と後の印象的な小品が発酵していく過程でもある。フロイトは三つのローマすなわち古代・キリスト教・現代を同時に経験していることに気づいていたことが指摘されている。岡田氏は、新旧が混在するイタリアの光景を描写したフロイトの或る手紙が、「近代人の知覚の変容」を表すとともに「均等にただよう注意」を先取りしているとするクレーリーの説を紹介している(『知覚の宙吊り』平凡社、2005)。こうした議論は、そのテクストの立論を詳細に辿る過程の中に説得力があるかどうかが鍵なので、関心を刺激された読者はクレーリーそのものに向かう必要がある。

 V章「イタリアに向かって」/「生殖器」は、手紙以外にもフロイトの三つのテクストを取り上げて、ローマの意味を論じている。フロイトは『夢解釈』の中で、ローマを舞台とする自分の夢を四つ挙げた。アンジューによる分析が紹介されているが、彼の“L'auto-analyse de Freud et la découverte de la psychanalyse”が未邦訳なので参考にすることができる。『日常生活の精神病理学』については、有名な「シニョレッリ」関連の図解がフレスコ壁画に酷似し、当該画家による≪アンチキリストの支配≫には、フロイトとフリースが並んだよく知られている写真と似た肖像を読み取ることもできるという説が紹介されている。最後に、「グラディーヴァ」論との関連では、主人公ハーノルトを考古学に強く惹かれていたフロイトとして読むことから、グラディーヴァのドレープの世紀末における文化的コンテクストにまで展開されるのが興味深い。

 W章「石は語る」は、フロイトの古物収集を概観している。フロイトの考古学メタファーは、「ヒステリー病因論」(1896)から晩年の「分析技法における構成の仕事」(1937)まで絶えることがない。そうした中で、フロイトが「考古学」で理解しているところは変化していく。ただ、著者が指摘するように過去の復元という意味から完全に離れた「構成」をフロイトが考えていたかどうかは、慎重な判断を要すると思われる。彼が分析者の関与と能動性を認めていることは確かである。最終的にフロイトは、考古学比喩から離れて、生きた相手であることを改めて強調する。また、「構成」という問題一般に関しては、著者が示唆するようにベンヤミン・ヴァールブルクらを参照して検討すべきだろう。

 X章「レオナルドとミケランジェロへの挑戦」は、フロイトによる二つの論考、「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の或る思い出」(1910)と「ミケランジェロのモーセ像」(1914)を二連画として捉えようとしている。二論文は、さまざまな意味で対照的であり相互補完的である。レオナルド論は、幼年期の逸話を参照して絵画を夢のように(あるいは症状のように)解釈する点で、精神分析の芸術への「応用」であるのに対して、ミケランジェロ論は、特異的な細部からそれを徴候とする全体の推理に及んでいる。これは、探偵ホームズが袖口の汚れから人物の素性から依頼内容まで言い当てるのと同じで、その一代表が、細部に個性を確認して画家を判定する「モレッリ式」という鑑別法とのことである。またレオナルド論は、画家の無意識が絵画に反映することを前提として、鑑賞者は隠れてしているが、ミケランジェロ論では、芸術を享受する受け手のフロイトの心もまた、解釈の場となっている。更に対照的なのは、レオナルド論では「母」が主題になるのに対して、ミケランジェロ論では、「父」の役割が重要なことである。レオナルドが幼くして実母と別れ、フロイトが取り上げるオイディプス・モーセらと同じく二人の母親を持つことになったことはよく知られており、フロイト自身の子守女の存在と結びつけられることが多い。一方ミケランジェロ論は、モーセが愚民たちに激怒して石版を叩きつける直前を表したとする従来のモーセ像解釈に対して、フロイトはむしろ怒りの爆発を抑えた場面として解釈しているが、それは何重もの、教皇とミケランジェロ・ヤーコブとジグムントの、父と子の葛藤として、また、怒りを抑えるモーセは、ミケランジェロ自身・フロイト自身のこととして読み取られている。ここで著者が付け加えたいのは、こうした芸術家たちからフロイトを読むことである。レオナルドの技法スフマート(輪郭線を用いずに陰影を表現するぼかし画法)、ミケランジェロはモーセが息子にして父であることを意識していたこと、これらをもって著者は、彼らがフロイトを「先取り」していると主張している。だが、 先取りを発見するにもその概念を要するので、これはむしろ、「構成」を巡る問題が再び現れていると見ることができるだろう。

 最後の章「イタリアのフロイト――カトリシズムとファシズムの狭間で」では、イタリアにおけるフロイト受容とそれへのフロイトの態度が紹介されている。

 フロイトとイタリアの関連で、著者が何度か参照しているLaurence Simmons (2006): Freud’s Italian Journey, Edition Rodopi, New York.に触れておこう。Simmonsの論述は、数あるフロイトについての脱構築的批評の中でも群を抜いて緻密かつ包括的であり、イタリアと旅行の隠喩を取り上げることから始めて、フロイトにとってイタリアがいかに重要な機会を提供したかを順序立てて論じている。そしてフロイトの叙述と考察の歩みは、精神分析が芸術に対して行ないがちと考えられる還元主義的解釈に収まらないことを示している。具体的な細部の指摘でも、先行の学説が幅広く取り上げられており、参考になるところが大きい。例えば、ミケランジェロのモーセ像は、本来の構想では下から見上げるところに置かれることになっていて、その角度で見ると、像の表情は随分違うとのことである。精神分析の歴史に関しても、例えば「ミケランジェロのモーセ像」を書いていた折に、フロイトがいかに弟子たちに失望と怒りを感じていたか、的確に結びつけられている。また、既に挙げたDidier Anzieu(1998):L'auto-analyse de Freud et la découverte de la psychanalyseの他にも、David Whitney(1995):Drawing the Dream of the Wolves: Homosexuality, Interpretation, and Freud’s “Wolf Man”は興味深い研究書である。

 このように本書は導きの糸口として、読者がフロイトの生涯と著作にユニークな角度から改めてアプローチする機会を提供している。

(平凡社2008年、316頁、3800円+税)

 
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