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書評:
藤山直樹編
 『ナルシシズムの精神分析 狩野力八郎先生還暦記念論文集』

恵泉女学園大学/長谷川病院/代官山心理・分析オフィス   福本 修

ナルシシズムの精神分析 本書は狩野力八郎氏の還暦を記念して、氏による総説を筆頭に、さまざまな臨床設定と治療局面におけるナルシシズムに関わる7本の論文と、編者藤山直樹氏によるメタ心理学概念としての「ナルシシズム」を巡る覚書の計9本を収録したものである。ナルキッソスの神話に端を発する「ナルシシズム」は、1914年に精神分析概念として論じられ、今もその中核的な位置を占めている。国際専門誌の“International Journal of Psychoanalysis”はスフィンクスに対峙するオイディプスをロゴにしているが、2009年度の表紙には、泉の水面を見るナルキッソスが描かれていた。ただ、本書の編集刊行は当初の予定より2年遅れたとのことであり、この書評紹介は更に遅らせていて、申し訳ないことである。しかし、本書中の長期の関与に基づく報告には、時間の経過で色褪せない実質があり、実践の上でなお残る疑問と課題をも記している点で極めて貴重な、今読まれるべき本である。

 執筆者は、狩野氏が1990年代後半に主催していたナルシシズムの勉強会への参加メンバーを中心に、スーパービジョンなどを通じて氏に学恩のある臨床家たちである。参加当時、新進あるいは中堅になりつつあった諸氏は専門性を身につけ、責任ある立場の指導者層に属している。筆者自身の研修時期とも一部重なり、実際に居合わせた場面の記述さえあったので、この多様なアプローチを含む論文集を興味深く読んだ。それにしては、随分と遅らせたわけだが・・それはやはり内容的に、咀嚼に時間を掛けたくなるものがあり、「ナルシシズム」概念の難しさが絡んでいた気がする。

 まずは、総説から確認しよう。狩野氏は、この概念が錯綜する理由の一つとして、フロイトのテクストにはナルシシズムに関して「閉鎖システムモデル」および「開放システムモデル」という二つの捉え方が内在していることを挙げる。フロイトは個体内におけるリビドーの流動性を認める一方で、全体としては閉鎖システムによるモデルを作り、超自我・自我・エスのパーソナリティ構造論を完成させようとした。これは、彼が主としてほぼ自活している成人を治療していたので、完成形から考察することになったことに由来するのではないかと思われる。しかし患者たちの生活の実態は、家族や資産のおかげで維持されていたことが多く、周囲を巻き込み病理的に出来上がった「閉鎖システム」だったということだろう。狩野氏はそれを、「閉ざされた心」と表現している。「閉鎖モデル」が一種の完成態だとすれば、その形成途上は必然的に、環境と相互作用する「開放システム」である。フロイトはそうした発達・成長に関して多くを述べなかったが、端々でそれを示唆した。治療対象を拡大しつつ母子の交流や関係性を焦点として発展していったフロイト以後の精神分析は、その多くがフロイトの着想や萌芽に基づいている。その後のさまざまな学派間の差異は、或る意味でフロイトのどの面を批判的に発展させたかに拠る。それらは互いに大きく異なるようでも、治療を通じて「開かれた心」を目指しているところが共通していると言えるだろう。

 それはそうだとして、ここで狩野氏はもう一歩踏み込んで、「フロイトがなぜ閉鎖システムモデルにこだわったか」を問い直している。そして、われわれの心的生活に「外界とは交流しないがそれでも生きている」、「自らを再生産するようなシステム」がフロイトによって示唆されていることを想定する。これはおそらくわれわれの内奥の私的生活を意味し、それを支える「生きている閉鎖システム」(本書p.12)の存在を指しているようである。これもまた、ナルシシズムの一様態なのだろうか。「アメーバーの比喩」から筆者に浮かぶのは、『快原理の彼岸』の議論である。「ナルシシズム」が1909年に、口頭発表や『性に関する三論文』への追加の註で用いられたときには、直接に「死」を連想させるものはなかった。しかし「閉鎖システム」を『自我とエス』(1923)で完成させたとき、フロイトは既に「死の欲動」概念を導入していた。フロイトでは閉じていることが、生物としての根本的な限界つまり生の有限性と結びついていかなかっただろうか。

 藤山氏は「覚書」でナルキッソス神話を参照して、ナルキッソスが「自分の映像に見ほれ、痩せ衰え、ついに死んでしまった」点でナルシシズムに、不毛さや非生産性・心的な死との強い関連性を認める。オイディウス『変身物語』(岩波文庫)によれば、ナルキッソスは「非情な思いあがり」を最初から持ち合わせて周囲を愚弄していた“自己愛的”な人物だが、悲劇は「泉に映った自分の姿に魅せられ」たことにある。これは「みずからの美しさ」だと気づいていない点でいわゆる自惚れではなく、気づいてからも、「わたしの美貌」の虜として文字通り心を奪われて我に返ることができないでいるので、自己満足からは程遠い。その致死性は、もはや自分が合わせなければならないが維持し難くなった理想的な美貌が、「はかない虚像」であることを受け入れられないところにある。「下界へ迎えられてからも、彼は冥府の河に映る自分を見つめていた」(同書)という取り憑かれは、美容整形を繰り返したとされるマイケル・ジャクソンを思い出させる(但し、彼の肌が異様に白くなったのは、尋常性白斑に由来するらしい)。深い関わりを虚像としか持てないのは明らかに病理的だが、それはその虚像が非現実的な理想であると同時に、像=一瞬を永遠化して、生の変転を否認しているからでもある。心にとってそれは麻痺状態であり、死そのものであるかはともかく、生は停止している。

 本書の臨床論文は、そのさまざまな表れを描いている。舘氏の「自己愛の病理について自己心理学的立場からの一考察」は、「被虐的な誇大自己をもつ女性」の治療過程を論じている。「誇大自己」は、コフートの考えでは健康な自己愛として正常発達の一部だが、この例では、親の自己愛的な押し付けによって、本人の成長に寄与しない虚像と化している。治療は本当の自己体験をもたらして、この構造を修復することである。近藤氏の「『心が閉じる』局面と治療関係――ひきこもりケースの精神療法より――」は、初診時24才の男性との8年に及ぶ治療経過を考察している。治療者は当初、自己愛パーソナリティ障害として捉え、2〜3年で何とかなるかと予想したが、治療は長期化し、理解の参照枠をスキゾイド・パーソナリティへと移していった。患者が治療者との交流を拒否する一方で「怯えと怒り」ばかり感じているのは、確かに後者を思わせる。近藤氏は、患者が「閉じる」局面では治療者もひきこもりがちになったことを述べ、そこからの患者との関わりを模索している。このように長い経過の症例を短い記述から論評するのは困難だが、「他の人たちはしているらしいキャッチボール≠ェ、自分にはピンとこない」と患者が言っているのを見ると、「局面」というより全般的傾向が顕在化した可能性はないか、とも想像される。

 高野氏の「自己愛人格障害患者との精神療法――スーパービジョンと治療者としての能動性――」は、30才近い自己愛人格障害の男性患者との治療経過を素材に、二つの時期のグループスーパービジョン経験と治療者自身の成長の関係について論じている。患者には気分の易変があるようだが、内的な意味の解釈(「宝箱」としての手帳)に触れると反応するところは、変化の可能性を窺わせる。一方治療者は、挑発的で図に乗るところがある患者との情緒的交流に困難も感じていたと思われるが、2番目の4週連続のグループスーパービジョンでは、キャンセルによる素材不足もあって、著者は「身を挺して」ロールプレイを依頼した。20何年か前の私は正直そういう選択に驚いたが、このスーパービジョンセッションは治療者の能動性と一貫性、要はしつけ方と発達の助け方の体験学習として、有意義だったことが分かる。細澤仁氏の「ひきこもりとナルシシズム」は、頻回の自傷歴を持ち沈黙の多い女子高生との1年半の経過を対象関係論的な指向で論じる。著者はナルシシズムの問題を「治療者という対象からのひきこもり」と捉えて、投影同一化・逆転移・環境の失敗による再演の現れを整理して述べている。ただ、再演とされる出来事には何かを揺らがすほどのインパクトがあったように見えず、その後短期間で「他者と意味のある交流が可能に」なった事情はよく分からない。

 生地氏の「被虐待体験と自己愛的な万能感について」は、児童養護施設に暮らす子どものスーパービジョン例から「自己愛的で万能的な空想世界」を、治療開始時大学生だった男性との数年の関わりから「外傷的で虐待的と言える養育環境の問題」を論じている。後者は精神療法が続いてもなかなか「治療関係も深まらないままに」進行したとあるが、自己愛的な患者とは往々にして経験することで、臨床的なリアリティが感じられる。なかでも、「小学校低学年の時は、よく人にけがをさせていた」「友達の目にセメントを入れ」たといった本患者のエピソードは、対他配慮が困難な多動児を彷彿とさせる。自己愛あるいはナルシシズムは精神分析的・心理学的概念だが、器質的基盤はスペクトラムとしてどうなのか、お尋ねしたいところである。吉田氏の「病的自己愛の発達と子どもの自己愛障害」は、パウリーナ・カーンバーグ、ブライバーグらの仕事を総説している。著者は、「自己愛障害の子どもの研究はわが国では皆無」だが「不登校研究」にはそれに相当する例が見られる、とする。しかしADHDや行為障害については、その心理的側面を含めて多数の研究があるだろう。それらと照合するとどうなのだろうか。

 村岡氏の「ターニングポイント ――その思索の航跡――」は、著者が「ターニングポイント」という概念を掴むまで、そしていずれも数年に及ぶ治療経験の中で得たその後の思索の深まりを論じている。この研究は「ナルシシズム」を直接キーワードに掲げていないけれども、さまざまな関連性があることを著者は指摘する。また、治療者のナルシシズムに取り組むことがそこに含まれている。

 以上、各論文について駆け足で述べたが、いずれも5年・10年の臨床的な関与と検証の過程を報告したものであり、ここで触れられなかった多くの記載がある。読者はさまざまな観点から読んで、ナルシシズム関連の考察を深めることができるだろう。筆者が改めて難しく感じた点を、1つだけ挙げておきたい。それは、本書の幾つかの症例にも見られる、あるタイプの「自己愛パーソナリティ障害」の変わらなさであり、治療的な影響の受けがたさである。その本態は、何だろうか。自己愛が誇大性と被害性を揺れるときには精神病に近縁となるが、固執と具象性・疎通の悪さが顕著ならば、発達障害に類縁(いわゆる広汎性でなくても)となる。どの概念にも、種々雑多なものが含まれている可能性が高い。奇しくも本書の著者のほとんどは医師である。精神医学を踏まえた精神分析的な理解は、これからますます求められることだろう。
最後に、編者とともに、狩野力八郎先生のご健康とさらなるご発展をこころより祈りたい。『方法としての治療構造論―精神分析的心理療法の実践』(金剛出版、2009)には、氏の最新の集成を読むことができる。

(岩崎学術出版社、2008年、153頁、3000円+税)

 
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