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フランセス・タスティン−−その生涯と仕事
福本 修
I.
数年の闘病生活の末、1994年秋に亡くなったフランセス・タスティンFrances Tustinは、死後ますますその自閉症に捧げた仕事で注目されるようになった。彼女はタヴィストック・クリニックでクライン派の児童精神療法の訓練を受けたが、自閉症を理解するためにマーラー・ビブリングらアメリカの自我心理学者たち・更にウィニコットの考えを取り入れるのを躊躇わず、のちにはユング派とも交流を持った。
彼女は自閉症とその精神療法に関連して四冊の本(『自閉症と児童精神病』(1972)、『子供の自閉的状態』(1981)同改訂版(1992)、『神経症患者における自閉的障壁』(1986)同改訂版(1994)、『子供及び大人における保護的な殻』(1990))を出版し、晩年まで改訂を続け自分の考えを発展させた。彼女は自閉症の病因論・疾病分類・治療論から出発して、自閉症独自の対象関係と自己感覚に支配される世界を描出し、その背後にある存在消滅の原初的不安を取り上げた。更には、それをあらゆるパーソナリティに内在するものとして普遍化し、摂食障害者・神経症者や大人も持つ自閉的部分に目を向けるようになった。
生前から彼女はその功績を通じて、英国では英国精神分析協会の名誉会友・英国児童精神療法家協会の名誉会員に推挙され、海外では殆どの著書が翻訳され、彼女のアイデアを大幅に取り入れたオグデンのいるカリフォルニア精神分析センターの通信会員に選ばれた。
その一方で、彼女の存命中精神医学界からの自閉症への精神療法的アプローチへの懐疑は高まりこそすれ減少せず、イギリスでは彼女の仕事は限定されたサークルで評価されてきた。実際、認知・発達心理学的研究は新しい知見を提供し続けており、彼女自身がそれを受け入れて自分の見解を修正してきた。そのような中で、彼女の直観がどこまで妥当性を維持するかを評価し、更に活かせるかどうかは、これからの課題のようである。
筆者は、今挙げた彼女の仕事の内むしろ後期の、応用に近い領域により関心を持つ者だが、この機会に彼女の生涯と仕事を概観してみたい。
先に彼女の生涯を振り返るとしよう。以下では、彼女自身の著述と再版された『自閉症と児童精神病』へのヴィクトリア・ハミルトンによる序文以外は、主にシーラ・スペンスリーのモノグラフを出典として抄訳している。
フランセス・デイジー・ヴィカーズ(彼女の旧姓)は、第一次世界大戦直前の1913年10月15日北イングランドのダーリントンで生まれた。母親はロンドンの名門チェルシー・カレッジで教会シスターとしての訓練を受けていて、家の外では「シスター・ミニー」と呼ばれていた。彼女は慈善事業婦人会員として働いていたとき、フランセスの父となる若者、ジョージ・ヴィカーズに出会った。彼もまた敬虔な信者で、救世軍で平信徒の読師として訓練を受け、説教師として働いていた。彼らは強い宗教的関心を共有して結婚したが、気質的には正反対だった。母親は受容的で服従的なのに対して、父親は過激で社会規範に従わなかった。それから、彼が十四才年下だったことも相互の理解に困難を加えた。彼はフランセスが一才のとき従軍牧師としてフランスに出征し、捕虜となって彼女が五才になるまで戻らなかった。
残された母子は、息が詰まるほど教会の教えに没頭して過ごした。フランセスは服従的な良い女の子として育ち、母親の信念を全て受け入れ、期待される以上の満足を母親に与えたが、母親が宗教にすがって「闇と罪」の世界を照らし出す燭台となろうとする欲求の背後には危険感と恐怖があることを見抜いていた。幼いフランセスは少年団に入り、責任感と貫禄を身に付け自分が「キリストのための太陽光線」であるという自信を持つとともに、母親の欲求があまりに強いので娘の自分が親代りしなければならないと信じていた。
このように、母子が信仰を糊にして密着し母親は教会を夫としているところへ、戦争と戦争に対する教会の態度に失望して平和主義者かつ社会主義者となった父親が帰ってきた。彼は家族をシェフィールドに連れ、職業を変えて教師になるために大学に行き始めた。フランセスも1919年からそこで学校に行き始めたが続く十年、彼女は両親間の争いで板挟みとなった。人生の最初の五年に母親から教わったことは、全て父親の批判の対象だった。第一次世界大戦の戦争体験は彼を混乱させ、宗教と訓練についての伝統的な信念を彼が受け入れ続けることを困難にした(ビオンの戦争経験が想起されるだろう)。母親の保守的な信心は、信じるべきものと真実を求める父親の、格好の攻撃対象となった。母親は彼が悪魔によって汚されたと恐れ、B・ショーやS・フロイト、父親を魅了した進歩的な教育学者A・S・ニール−−W・ライヒに分析を受けたとされている−−の著作を邪悪と見なした。
母親からの独立を求めていたフランセスは父親に影響され、後に悲しみと後悔をもって回想されることになるが、母親の態度や信心に良いものを見れなくなり、その考え方の単純さと素朴さに軽蔑を感じ始めるようになった。彼女は勉強が進み父親を崇めるようになって、ますます母親から離れ、楽しくユーモアのセンスのある父親に惹かれていった。
父親は訓練を終えて教師となり、田舎の学校を選んだ。1923年には、フランセスが通う学校の校長となった。彼女は今度は父親の世界で、特殊な地位が与えられることになった。父娘は田舎の環境で幸福だったが、母親はそうではなかった。彼女は文化的生活を好み都会の方が上だと思っていたし、臆病で牛や犬・暗闇を恐れていた。母親はロンドンの洗練を守って自分の養育と同じ基準の教育を娘に与えるべきだと感じた。一方父親はリンカーン州の農家出身で、誇るべき祖先について彼女に語った。中でも、最初の女性説教師のことは彼女の記憶に残った。
フランセスはいつも注目の的で、彼女は明るく知的で親切で人気があった。彼女は生涯友人を作るのに困ったことがなかったが、子供時代には父親の仕事の関係で何度も引っ越した(後には、自分を見失わず真に欲するものを求めるために、クライン派を出て自我心理学・ウィニコット・発達心理学・・と渉猟することになる)。12才のとき始めた寮生活のおかげで、彼女は家庭内の葛藤から解放されたと感じた。しかし一年後また父親の仕事に都合で転校し、自宅から通うようになった。彼女は生物学者になることを考え、オックスフォードを目指していた。
この時期に母親は父親と別居することを決断し、13才のフランセスを連れて家を出た。母親としては、彼女が父親の「罪深さ」に染まり切ることから守るためだったが、フランセスにとっては愛着の人物・場所から引き剥される、全くのショックだった。しかし彼女はそれを否認し、母親を支え、明るく自信に満ちてバランスのとれた人物として振る舞った。この隠されカプセル化されたショックの経験の衝撃が明らかになるのは、ビオンとの分析においてだった。母娘は一年間イングランドの友人・親戚宅を旅し続け、シェフィールドに戻った。母親は寂れた小さな教会で働き始めた。そこに知的な雰囲気はなく、迷信に満ちていたがともかくもフランセスは学校に戻り、教師になるコースに入った。卒業して一年間の実習を経た時点で、父親のような考えに触れないようにという母親の希望と、経済的・職業的独立と母親の影響からの自由を求めていただろう彼女の意向が合致して、彼女は1932年にホワイトランズ英国教会カレッジへと進んだ。
伝統あるカレッジでも、時代の波を受けて教育方法について論議が起こったが、フランセスは、論争が寛大さと忍耐の精神をもって行われるのに感銘を受けた。彼女にとって、カレッジの静かで善意ある雰囲気とキリスト教の教えの無私と寛容さは、父親の容赦ない論理とも母親の信心の人を閉じ込める硬直性とも対照的で、安堵と喜びを感じた。
当時は教育と心理学が結びつきつつある時代で、カレッジのカリキュラムでは、非行少年の教育と矯正に初めて心理学的原則を導入した、パイオニアでもあり論争の的でもあった教育学者ホーマー・レインの考えが取り入れられていた。(パイオニア的な開拓者でもあり革新者として衝撃を与える人物たちが、父親を初めとしてビオン、そして彼女自身に至るまで、彼女の人生に次々に登場するのが見てとれる。)彼は強制と罰ではなく、愛・自由・自己統制を三原則として制度を作った。心理学の新しい考えに興味がある者にとっては彼は新たな息吹をもたらす教師であり治療者だったが、慣習的で保守的な者にとっては、彼は脅威で、疑わしく見られた。彼は実際、生徒に対する性的な関わりの疑惑に巻き込まれた。しかしこれは、精神病的に混乱した生徒の訴えだったようである。
フランセスは有望な学生で、父親のように教育への才能を示した。彼女は、7才から9才の子供たちを教育することを選び、病弱となった母親のいるシェフィールドで仕事を始めた。彼女は英語と生物の教師だった。そこに想像力・芸術的性向と科学性の結合を見る向きもある。彼女は父親と同じく労働党に加盟した。そこで市役所に勤めるジョン・テーラーに会い、第二次世界大戦直前の1938年彼らは結婚した。彼らは一年一緒に住んだが、ジョンは徴兵され、約五年間別居生活をすることになった。これは父親との経験の驚くべき反復である。
フランセスの母親は1942年に亡くなった。夫は海外におり、自由となった彼女はイングランド南部のケントの寮制学校に勤め、夜はロンドンに行き、スーザン・アイザックスがロンドン大学で教える児童発達コースに出席した。物理学者アーノルド・タスティン、将来の第二の夫に会ったのは、この頃参加したキリスト教関係の集まりでである。
1945年夫が海外から戻ってきたとき、二人は自分たちが離れてしまったことに気づいた。結局彼らは1946年離婚した。彼女はホワイトランズに、講師として戻った。アーノルドと再婚するのはその二年後である。彼の勤務の関係で、彼らはバーミンガムに移った。
彼女が新聞への当初を見て父親と偶然の再会を果たしたのは、1941年だった。彼は新たなパートナー、グラディスと暮らしていた。フランセスは彼女と折り合いよく、行き来した。フランセスは彼が彼女のことも良く言わないのを聞いて、彼が母親に限らず女性一般を蔑視していたことが分かった。父親は晩年まで宗教的懐疑に苛まれ、最終的にカトリックに改宗した。
1949年、彼女は最初の赤ん坊を妊娠中毒症のためになくした。夫の支えもあって、彼女は悲嘆と落胆をタヴィストックでの児童精神療法家としての訓練に振り向けようと努め、1950年バーミンガムからロンドンへと通い始めた。非医師のための訓練コースは、1948年に開かれたばかりだった。同期生には、マーサ・ハリス、ディナ・ローゼンブラス、南アフリカに戻ったイヴォンヌ・ハウプトがいた。後のメルツァー夫人、ハリスは親切で、フランセスを助け親しく付き合った。
講師陣には、ジョン・ボールビィ、エスター・ビック等がいた。ボールビィは、非医師に子供との治療的接触を許したがらない精神医学界に抗して、この訓練コースを開設した。精神分析者かつ研究者であり思慮と学識を備えた彼は、フランセスには「最高のイギリス人」に見えた。それに対して情熱的なポーランド避難民であるビックには、クラインと彼女の仕事への熱烈な支持から初め不安を感じさせられた。しかし彼女はビックの臨床的な鋭さを認めるようになった。ビックはウィーン大学で児童心理学を学んだが、そこの観察はストップウオッチを用いたものだった。それに対して彼女は計測を排除しつつ、内的世界の構造化の過程を見るための厳密な観察方法を開発した。ボールビィとビックのアプローチは、外からの観察vs.内的世界の理解・科学的vs.体験的等々、極めて対照的である。彼らは他の理由からも対立し、結果としてビックがタヴィストックを去った。しかし彼女が定めた情動的な経験と観察に重きを置く「乳児観察」の方法は、タヴィストックの児童精神療法家訓練の中心の一つとなったばかりでなく、1962年には英国精神分析協会の訓練プログラムの一部に採用され、今日ではイギリスのあらゆる精神療法の訓練の基本的なカリキュラムの一つである。
ビックはタスティンの分析者を選んだ。最初ビオンの名前を聞いたとき、タスティンは何も知らなかった。元々、彼女は自分をバランスのとれた洞察力のある女性を思っていて、分析の必要があるとは思っていなかった。彼女に関心があったのは子供であって、自分ではなかった。分析は訓練のために必要だが不便な一部分だった。実際にビオンに会って、彼女はかつて経験したことのない不快な思いをした。彼女は彼に恐怖を感じ、寝椅子に抵抗したが、最初の週の内に彼の印象は変わった。分析は彼女がアメリカに行った期間と病気療養中を除いて、14年間続いた。
1953年に彼女はタヴィストックでの訓練を終え、児童精神療法家の資格を得た。彼女の自閉症との最初の接触は、1952年にボールビィがタヴィストックに招いたマリオン・パットナムによる講演だった。彼は、フロイトの考えと行動療法を組み合わせた治療法をとる、パットナム・センターで働いていた。自閉症は、関係と空想された関係の分析に基づくクライン派の射程距離を超えているようで、挑戦を感じさせた。タヴィストックの中でも、ビック或いは後にメルツァー(1975)が仕事をまとめあげたホクスター・ブレンナー・ウェデル・ウィッテンバーグらが自閉症に取り組みつつあった。シカゴでは、ベッテルハイムが自閉症の精神分析的な治療を行っていた。
こうして彼女の自閉症への関心が高まっているとき、好運がやってきた。夫がマサチューセッツ工科大に招聘されたので、彼女がボストンのパットナム・センターで研修することが可能となったのだ。彼女はボールビィに推薦してもらい、現地で自閉症治療プログラムに参加することができた。もっとも、彼女には心理学者或いは医者としての資格はなく、専らタヴィストックでの訓練と経験が頼りだった。彼女はクリニックで診察するだけでなく、自閉症児たちの家庭まで出向いて両親が休んでいる間に彼らの世話をした。彼女はクリニックにあった十年分の診療記録を全て読み、自閉的状態が親にも子供にももたらす悲劇に心を打たれた。彼女は母親たちに共感的で、「冷蔵庫のよう」といった批判はしていない。ただ、母親が敏感で世話をよくする人たちではあっても、内的外的な支持がないために自信と柔軟性に欠けていて、彼らの不安が乳児の無反応性に混ざりあっていることに気づいた。
帰国後、タスティンはグレート・オーモンド通り病院の児童精神療法家となった。彼女はアメリカでの経験を見込まれて、自閉症児の治療を依頼された。彼女はすぐに、クライン派として学んだことが彼らを理解するために十分ではないことに気づいた。彼女の格闘と理解の展開は、節を改めて見るとしよう。
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