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書評:
ジュール・グレン+マーク・カンザー編 馬場謙一監訳・岡元綾子+高塚雄介+馬場謙一訳
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『シュレーバーと狼男 フロイト症例を再読する』 |
恵泉女学園大学、長谷川病院、代官山心理・分析オフィス 福本 修 |
本書は、Freud and His Patients, edited by Mark Kanzer and Jules Glenn, Jason Aronson, New York, 1980から、第W部・第X部を邦訳したものである。原書の前半は、いわゆるフロイトの五大症例のうち「ドラ」および「ハンス少年」を取り上げており、邦訳は『フロイト症例の再検討T』として1995年に刊行された。「ネズミ男」および全体を総括する後半も、翻訳刊行の用意がなされているとのことである。フロイト症例および彼の著作全般は昨今、『現代フロイト読本1・2』(みすず書房、2008)など日本人による読解が発表され、Jean-Michel Quinodoz“Lire Freud”(英訳は“Reading Freud”)も邦訳が予定されている中で、この有名な研究書が揃って容易に読めるようになるのは、大変喜ばしい。但し、原書の企画は1974年に遡る。引用参照されている文献も殆どがその時期までのものであることには、注意する必要があるだろう。
本訳書前半は「シュレーバー」症例を扱っている。第1章から第3章までは、ニーダーランドによる調査研究の再録である。彼はシュレーバーの子供時代と彼の家族特に父親との経験に遡り、発症と症状(妄想)形成への影響を論じている。シュレーバーの父親は整形外科医であったばかりでなく、著名な著作者・講演者にして教育活動家であり、奇怪な矯正具を用いて子供の「悪習」を「直接的に撲滅」させることを推奨していた。本書にも再掲された姿勢正しい少女たちの図版は、音もなく進む加虐性を表して戦慄的である。シュレーバーの身体に加えられた「胸部圧搾の奇跡」「頭部を緊縛する機械」といった「神の奇跡」は、子供時代に父親によって与えられた現実体験の再現と見なされる。これは、「精神病の妄想には生活史的真実の核がある」というフロイトの命題を実証しようとするものである。また、「トスカーナとタスマニアの侯爵たち」といった妄想の象徴分析から、エディプス・コンプレックスの痕跡が浮き彫りにされる。フロイトの理論構成が父親中心であるためばかりでなく、従来から資料の乏しさによって、シュレーバーの母親について触れられることは少なかった。ニーダーランドはそれを、母役割まで侵害する「共生的父親」の結果であると解釈する。彼は更に、母親が「すべての点でお父様の誠実かつ親密な同志」だったというシュレーバーの姉の証言を引いている。フロイト自身は、当時現存していた本人と家族への配慮もあってか、こうした関連性に言及していない。それだけでなく、フロイトの理論的な道具立ては時とともに変化しており、フロイトにとってさえ、論文当時(1911)のものは不十分である。「自己愛」(1914)の概念もなければ、「死の欲動」(1920)も「超自我」(1923)も未導入で、精神病を神経症と対比させて整理しようとしたのは、1920年代半ばのことである。
第4章は、フロイトの論文を今どう教えるかを論じている。本書刊行時点での教育としては、マーラー・ジェイコブソンらの精神分析的な発達論を参照しながら、「前エディプス的な母を喪失する精神病者の恐怖」という母子関係の次元を補足している。最終的に教育では、フロイトの見解に「ドグマチックに執着することなく、自分自身で考える力を高めてゆく」ことが目指される。それは実際のところ、時代を経てどのように洗練した結論が得られるようになっても該当することだろう。
第5章は特に、構造論と攻撃性を重視したフロイト後期の概念を参照したアーロウとブレンナーによる分析を紹介する。第6章はこれまでの議論を簡潔に要約している。シュレーバー症例を俎上に、精神病と神経症を構造に峻別したラカンの議論(Les psychoses, 1955-1956.邦訳は『精神病』岩波書店、1987)にはまったく触れられていないが、刊行時期の関係からしても致し方ない。
さて本書から30年を経る間に、精神分析を巡る状況は大きく変わった。アメリカの精神医学および医学部の中に、精神分析の場は失われて久しいとされる。本書の中でも父親の影響に触れて、「これらの異常な経験のみで果たして統合失調症が生じうるだろうか」という疑問が挙げられている。時代は下って、成因論に関しては心因論の余地はなくなった。シュレーバーが議論の主題となったのは、診断学的な興味からである。例えばケーラー(1981)はスピッツァーによる研究用診断基準(RDC)に照らし、シュレーバーの病気が統合失調症であるという一般的な常識に反して、大鬱病だったとする。リプトン(1984)はDSM-Vと照合して、気分と不一致の精神病的特徴を持つ鬱病がやはり該当するとする。詳細は省略するが、こうしたことが言えるためには、彼の最初の幻覚が入眠時幻覚だったといった、記述精神病理学の意味で症状を解釈する操作が必要となる。最近ではマーティン(2007)が、シュレーバーの「吠える奇跡bellowing miracle」についての再解釈を提供している。彼によればそれは、連鎖球菌感染に続く成人発症のチックという神経疾患の症状である。「胸部圧搾の奇跡」もまたそこに結びつけられるべきであり、父親に戻るものではない。だが、症状を何に結びつけても、妄想が生じること自体の謎は結局残る。
そうした流れとは別に、クライン派のスタイナーSteiner, J(2005)もまたシュレーバーを取り上げ、鬱病を基盤としてそこにパラノイアが加わったとしている。その妄想は万能的な自己愛組織の一種であり、迫害的要素によって断片化した世界は、妄想のおかげで外見上まとまったものとなっている。シュレーバーが恥も外聞もなく自説を公言して憚らないのも、妄想が彼を苦痛から守っているからである。その他にスタイナーは、「包容する対象containing object」の不在がシュレーバーの回復を不可能にしたと論じている。この解説は、精神病的機制の機微へのクライン派の理解を知るのに役立つ。
狼男のセクションに移ろう。1910年から14年にかけて行なわれ1918年に発表されたこの症例についても、当時の文脈とフロイト自身の意図およびその限界を考慮する必要がある。改めて読むと、当時の諸前提が如何に現代のものと異なるかに気づかされる。その原題にあるようにフロイトの関心は、狼男の「幼児神経症の病歴」に集中している。当時児童分析というものは存在せず、幼児期への接近は成人患者の分析を通してなされた。その方法論には、無意識を解明する作業が比喩としての考古学を超えて実際に発掘することであるかのように、幼児期の問題を成人期の現状とは独立して掘り起こせるという前提があった。この治療でフロイトは、単に患者の「成人神経症については報告しない」だけでなく、その一連の問題を精神分析的に解釈することはなかった。代わりに行なったのは、例えば埒が明かなさに業を煮やして、終結の期限を設けたことである。しかしそれを埋め合わせるように、フロイトは延々と治療を提供しなければならなくなった。
フロイトが望んだように成人期と幼児期の問題を切り離すことができるのは、抑圧が完全に成立しているという理念的な状態においてのみである。現代の理解では、正常と見なされる人間の場合でも、乳児的・原始的・精神病的などと形容されるパーソナリティ部分を持っている。過去は現在の中に遺跡のように埋もれているのではなく、相互浸透し影響し合うので、事実の記憶か想像的再構成かという峻別は、必ずしも常に成立しない。そのうえ狼男は、恐怖症・心気症・強迫症等々の何らかの症状を終生持っていて、それらから自由な時期はなかった。症例研究上の問題を簡単に言えば、神経症モデルには収まらない症例でそのモデルの妥当性を証明しようと押し込めたところに基本的な無理があったが、もう一方で、その理論的な枠を壊してでも本当に起きていることを理解しようとする機会を提供したと言うこともできる。
フロイト以後、診断および精神病理・幼児神経症への接近法・現実か空想かという原光景の位置づけ・治療経過と治療技法の問題・フロイトと狼男の特殊な関係性から文化的背景と、実にさまざまな点に関して論考がなされてきた。本書の第7章から11章までの再録には、その代表的な論点が出ている。
ハロルド・ブルームは、分析の訓練過程では「フロイトの定式通りに」教えられたと述べるが、ここでは狼男を境界例という見地から再検討している(第7章「幼児期境界例としての狼男」)。その内実は、不安定性という一定の構造を持つカーンバーグの意味での境界型パーソナリティ障害ではなくて、重い自我障害があって時に精神病状態へと退行するが不可逆的な解体には至らない、精神病的部分を有するパーソナリティの障害である。その統合を維持するためには、支持を提供する何らかの治療的対象が必要となる。フロイトの癌罹患を耳にして狼男が精神病状態に陥ったように、外枠の崩れは内的な破綻に直結しうる。ブルームは、フロイトが主題としなかった成人期にある狼男の性格障害の現われを取り上げ、フロイトが提示した肛門サディズムおよび父親への受身的同性愛よりも早期の、二者関係の障害を想定する。すなわち、「対象との共生的融合と、全面的同一化へと向かう退行傾向にまつわる葛藤」である。彼はそれをマーラーの「分離-個体化」の図式で位置づけるが、同時に、「自我の欠陥」を指摘する。(筆者はこうした持続的な支持の必要性を、倒錯的性向をも含む対象関係の質を鑑みて、「寄生的対象関係」として論じたことがある。)
彼は原光景の目撃に関しても、ただそれ一つで外傷的な影響をもたらすかどうかに疑問を呈し、「両親の暖かい関係と関心」の欠如の方を重視している。また、そもそもマラリアに罹患した生後18ヶ月の幼児が3回という概念を明確に持って観察できただろうかとごく真っ当なことを述べ、むしろフロイトが誘惑説に回帰したのではないかとする。もっともブルームは第9章「原光景の持つ病因的影響――再評価」では、「原光景の目撃」の「病因的な作用」に、何か未練を残した書き方をしている。彼の指摘の中では、狼男に心気症的な母親への同一化が見られること、精神病的な破綻後フロイトが治療を依託したブランスウィックへの姉妹転移があったはずであることなどは、今も興味深い点と思われる。分析者として同じくフロイトを共有したブランスウィックによる分析の問題性は、編者の一人カンザーも第8章「狼男再考――原光景の探究」で吟味している。
ロバート・ラングスの「狼男症例における『誤った治療同盟』の次元」(第10章)は、治療同盟の質を論じている。ラングスはフロイトが技法上、二つの逸脱を犯したとする。一つは終結期限の設定というパラメーターの導入であり、もう一つは便秘を治す約束をしたことである。そのことを通じて、フロイトを父=神とし狼男が犠牲=キリストとなる、自己愛的な誤同盟を結んだとされる。ラングスはのちに、基本原則・枠組みとその逸脱・相互作用などの概念を用いて、コミュニカティヴ精神療法を唱導するようになる。それはまさに相互作用に着目したもので、今日の間主観性論にとっても刺激的かもしれない。だが、当人固有の精神病理について十分に語っているという観は乏しい。フロイトは便秘の再発を理由の一つとして未解決な転移に取り組む必要を告げ、ここに“無料治療”が始まった。彼は、宝石を隠し持っていた狼男から6年間毎年春に取り立てていたそうだが、これは便秘が置き換わり、実演されているように見える。こうした患者に精神分析が適切であるかどうかを含めて検討する必要があるだろう。
ユージーン・ハルパートによる最終章「レールモントフと狼男」は、日本ではあまり知られていないレールモントフという詩人への狼男の同一化を取り上げている。著者はそれの意義を、「心気症であった母親との、より退行的な同一化と融合を避ける」ためとする。確かに、そこには自己愛的な引きこもりが感じられるが、フロイトが精神病に関して指摘した「裂け目rent」すなわち欠損への継ぎ当てでもあったことだろう。
フロイトの症例記述は、尽きることなく興味深い。かつて彼はシュテーケルが「巨人の肩に乗れば、小人でも遠く見ることができる」と言ったとき、「シラミには無理だろう」とたしなめたとのことだが、簡単に超えたとは思わず種々の解釈とともに読み直すことには意義がある。本書はその際に助けとなると思われる。
(金剛出版2008年、202頁、2800円+税)
文献
Freud, S. (1924). Neurosis and Psychosis. In: The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, Volume XIX (1923-1925):147-154
福本修(2002):狼男再訪。『プシケー』21号、p.41-62。
Koehler, KG (1981): The Schreber case and affective illness: a research diagnostic re-assessment. Psychol. Med. 11(4):689-96.
Lipton, AA (1984): Was the "nervous illness" of Schreber a case of affective disorder?, Am J Psychiatry. 141(10):1236-9.
Martin, G (2007): Schreber's "bellowing miracle": a new content analysis of Daniel Paul Schreber's Memoirs of my nervous illness. J Nerv. Ment. Dis. 195(8):640-6.
Steiner, J (2005): Gaze, dominance and humiliation in the Schreber case. In Rosine Jozef Perelberg (Ed): Freud. A Modern Reader. Whurr Publications, London.
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