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書評:
ロナルド・ブリトン著  松木邦裕監訳・古賀靖彦訳
『信念と想像:精神分析のこころの探求』
代官山心理・分析オフィス 福本修

 本書は、シーガル・ジョゼフ以後のロンドン現代クライン派を代表する分析者の一人ロナルド・ブリトンRonald Britton(1932−)による、 Belief and Imagination: Explorations in Psychoanalysis, Routledge, London, 1998.の全訳である。著者のブリトンは近年、日本でもスタイナーSteiner, J.とともに知られるようになったが、具体的な経歴はあまり伝えられていないかもしれない。訳者・監訳者による紹介をセイヤーズSayers, J.から若干補足すると、成績優秀だった彼は最初軍医として精神科医のキャリアを積み、更に児童精神医学を研修するようになって、クライン派の考えに開かれていった。彼は研修中の個人分析に続いて、リーゼンバーグ-マルコムと10年間の訓練分析を行ない、ジョゼフおよびシーガルのスーパーヴィジョンを受け、1981年に英国精神分析協会の正会員となった。引き続き彼はタヴィストック・クリニックの「子供と両親」部門で1984年まで活躍し、以後、個人開業をしつつ教育訓練・研究活動を行なっている。本書は、クライン派訓練分析者としての彼の1998年までの仕事をまとめたものである。

  『信念と想像』と題された本書の各章は、このように彼がクライン派本流の分析者として多くの発表をし始めて以後の、具体的には1980年代半ばから90年代の論文を再編集したものと、ここで初めて発表された詩人たちを素材の中心とした研究からなる。彼は本にまとめる際、「信念」および「想像」という舞台を設定して心的現実と客観性・フィクションの地位といった問題を論じ、エディプス・コンプレックス、ポジションなどの精神分析の諸概念を再吟味している。「信念」とは、無意識的空想に留まらず意識的なものも含む、心的現実を構成している世界観である。信念から客観性への道程は主観性の喪の過程であり、妄想分裂ポジションから抑うつポジションへの移行に関わる。しかし、主観性がすべて誤りでも客観性に到達すべきものでもないことは明らかである。その中間的な広大な領域が、「想像」と呼ばれる。それは現実逃避になるかもしれないが、内的真実と創造性(という言葉をブリトンは使っていないが)に通じるかもしれない。――ところでこうした主題は、「象徴形成」という問題設定から論じるのがクライン派の常套である。しかしそうすると、クライン(1930)を引用しシーガル(1957)を参照してビオンも・・・と同じ思考の轍を踏むしかなくなりかねない。ブリトンは「信念」という、おそらく彼個人として最も興味深くかつ異なる角度から、症例ばかりでなく白昼夢や創作を取り上げて論じている。

 そこで精神分析的な参照枠として重要な「三角空間」や「内的エディプス状況」の概念は、今でこそクライン派によるエディプス理解の基本となっているが、彼がそれを語り始めた80年代初頭には、クライン派内ではまだ早期母子関係中心の見方が根強かったと思われる。例えば「包容」(containing)を論じたビオン(1962)は、父親への言及を「夢想」との関連で一言しているのみである。セイヤーズは、ブリトンがエディプス状況と「第三の位置」を強調するようになったことに、彼個人が父親でもあり「子供と両親」と仕事をしてきたことが関わっている可能性を指摘している。そうした関連性は具体的には定かでないが、彼が考えを確立していく上で、自分の経験を三角形の一角として保持しつつ、精神分析的関係を見直す作業を行なっていたことは十分考えられる。沈黙の時期には、「公表の不安」(本書最終章)もあったことと想像される。彼はそれほど自己を語っていないが、その意味では本書は、彼の内的な軌跡でもある。

 内容は多岐にわたるので、ここでは四つの主題についてのみ紹介したい。一つは、エディプス・コンプレックスの位置づけである。彼はエディプス関係を内的状況や思考作用にまで拡大し、二者関係と見なされがちだった治療者−患者関係が、実は三者関係であることを指摘した。精神分析的に患者について考え関わるために、治療者は患者との関係から独立して自分の内的対象と関わることを許容されなければならない。治療関係が有効に働くには、「第三の位置」の関与が必要である。一方患者は、それを悪い関係がもたらされる破局として恐れる。それは理想化された二者関係の終わりを、観念(あるいは信念)の死でなく関係そのものの死と受け取るからである。

 もう一つは、PS←→Dというビオンの図式の発展である。ブリトンは、ビオンが正常な発達過程としての投影同一化だけでなく、この記号によってポジションについても同じ指摘をしていたことを際立たせる。その上で彼は、連続的な発達周期と病理(退行)を組み入れた複雑な図式を提唱する。この拡張および一般化によって、劇的なばかりではない人生の実相が過不足・誇張なく広く触れられるようになった一方で、スタイナーの「病理的組織化」の概念の影を薄くし過ぎている観がある。
 第三は、精神分析過程における悪しき信念についてである。彼は具体的には、患者側には「アズイフ」が、分析者側には「自己満足」・自分の思い付きの買いかぶり(「過剰に価値づけられた考え」)を指摘する。どちらの状況でも、三角空間の緊張が防衛されている。

 第四は、「もう一方の部屋the other room」と彼が名づける場における、想像活動とエディプス状況の関連性についてである。それが意味するのは「目撃されない原光景」であり、両親間の結合parental linkと同じものを指すが、それを部屋と呼んだことによって、線的なつながりだけでない、両親同士のあらゆる活動と関係性が含まれていることが明示される。更には、ブリトンはそこを「神話的な特性」を得ている場所と描写することによって、クラインの生得的範疇である原光景ばかりでなく生得的知識に、そしてビオンの前概念作用と関連づけている。私にはここで更にもう一歩踏み込んで、グリッドC行と結びつけてもいいような気がするが、ブリトンはそこでの病理の方を主に論じている。

 全体を通してブリトンの著述は極めて明晰ではあるが、実のところ、彼の第二作に較べて読みやすいとは言い難い。理由の一つは、著者が純粋な再録を避けて各論考を練り上げ直していることが多いためかと思われる。その結果、初出の論文の要旨が述べられそこから更に議論が展開されており、加えて訳書の活字が通常より小さくページ当たりの行数も多いので、1章が実質的に論文2本分に相当している。あの有名な、“stop that fucking thinking!”の症例は削除されて、緊迫ある描写は簡潔な説明に置き換えられている。(という訳で、拙訳のシェーファー編『現代クライン派の展開』では初出を再録した。)

 もう一つは、後半で症例として取り上げられる詩人・作家たちが、著名ではあっても(コールリッジは、全く同じ一節がビオンの『注意と解釈』で引用されている)日本人に親しみ深いとは言えないからだろう。しかし彼には明らかに極めて重要であり、臨床経験に匹敵する多くの想をそこから得ている、おそらくもう一つの三角形の一角のような存在である。ほんの一言ずつのみ触れると、ワーズワースは、D(n)→Ps(n+1)における創造性の衰退という、彼の図式にとっての好例である。彼はここで「象徴等価物」の概念にも触れて、それを投影同一化による「対象の偽りの保存」という新鮮な捉え方をしている。リルケは、自己を是認する良い対象の不在(彼の出産1年前に女児を失った母親は、彼に女装をさせた)を生き延びなければならなかった乳幼児であり、恐ろしい欠如を捉えることによって自己の存在の核に達した。ミルトンの「サタン」(『失楽園』)は、「破壊的自己愛」の具現として読むことができる。しかしブリトンはそれを単にローゼンフェルトの図式の当て嵌めで終えず、サタンを「プライド」に結び付けて、もう一つの自己として経験する視点を提供している。独特な神学を形成したブレイクは、乳幼児期の破綻を置き換える信念体系によって混沌を防衛していると解釈される。同時にブリトンは、ウィニコットの「本当の自己」概念に批評を加えている。

 そこで改めて本書前半を読むと、彼はフロイト、クライン、ビオンといった著者たちの諸説をただ正しいものとして引用するのではなく、彼らを読み直し、ある時は必要な区別を設け、ある時は新たな文脈と結び付けて、より多様で複雑な現実を描出していることが分かる。そうした作業を通して、クライン派に結び付けられがちだった病理と発達の混同や単純な還元論は解消され、人生の総体が触れられている。本書はサンドラーSandler, J.の仕事がそうだったように、後に振り返ってクライン派の「静かな革命」の端緒と目されるようになるかもしれない。彼はSex, Death, and the Superego. Experiences in Psychoanalysis, Karnac, London, 2003.において、更にオリジナルな、つまりは読解を深化させた議論を展開している。読者は本書を読みつつ、自己の中での対話を通じて「三角空間」を広げ深めることを実践すれば、得るものは大きいだろう。

 なお末尾ながら、英詩を含む異文化に格闘した訳者・監訳者には、翻訳出版の成就をお慶び申し上げたい。

(金剛出版、2002年、270頁、4200円+税)

文献
Sayers, J. (2000) Kleinians: Psychoanalysis Inside Out. Polity Press, Cambridge.


 
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