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暴力的な犯罪者への精神分析的接近
−−クライン派のアプローチから−− (『イマーゴ』94-4)
福本 修
1.はじめに
昨年二月、凶悪犯罪が珍しくなくなったイギリスでも、とりわけ驚くべき事件が起こった。当時二才のジェームズ・バルジャーが誘拐され、二日後列車に轢断された死体姿で発見された。六日後に逮捕された犯人は十才の二人の少年だった。誘拐の現場はショッピングセンターのモニターカメラに写されていた。
十一月には彼らに対して「極めて長い期間の留置」という判決が下され、実名とともに犯行に至るまでの経過や生活歴・家庭環境などが報道されるようになった。そこで同時に、メアリー・ベルが思い起こされた。彼女は十一才の時に二人の子供を殺して無期懲役の判決を下された。その後精神療法による治療を経て、彼女は社会復帰し、現在は主婦として生活していると言う。彼らもまた少年院−刑務所の留置期間の間、治療を受けることになるだろう。
彼らが未成年であることを考慮するにしても、「殺人犯への精神療法的治療」という処遇は、日本では聞かないことである。イギリスでは死刑は廃止されており、治療に当たる者たちは−−社会の全ての者がではないが−−犯罪を病として考えている。例えばタヴィストック・クリニックに隣接するポートマン・クリニックは、小規模ながら専門の外来治療機関である。
イギリスの印象深い点は、高品質を保った専門性と荒廃した姿の落差があまりに激しいことである。精神医療においても、Institute of Psycho-Analysisを頂点とする超高度の専門家集団と、病院と地域ケアの狭間でこぼれた大量のホームレスは、極めて対照的である。精神医療の眺めは、生物学的な観点から見るとまた異なるだろうが、凹凸の著しさには変わりあるまい。この両極端は、共に個人主義の産物であって補完し合っていると疑われるが、高い部分の品質は否定できない。イギリスの精神分析者たちは、嗜癖者や倒錯者・殺人を含む犯罪者・非行少年らに精神分析・精神療法によって治療を行い、彼らの精神力動を理解しようとしてきた。日本では知識のレベルでも取り上げられておらず、家庭裁判所などの一部門を除くと実践では精神分析の関与は更に乏しいようである。イギリスでも現在、更生に多大な公費を掛けることに対して、効果の論議抜きに反対する傾向が強まりつつある。しかも犯罪は、ケアの供給力が追いつかない速さで広がっている。今後どのように活かされるか分からないが、精神分析的な理解の一端を見ることにしよう。なお、多くの孤児・非行少年を治療したアンナ・フロイト派、環境による剥奪を重視したウィニコットらもまた興味深い知見を出しているが、ここでは衝動的に殺人を行う心性を中心にすることにして、彼らは省略する。
2.精神病質の力動的性格学
犯罪的行為に対する精神分析の関心は、フロイトに遡ることができる。彼は罪悪感が存在するのに悪事を行う神経症者がいるという逆説に注目した。常識的には罪悪感は犯行の歯止めとなり、その欠如によって行われると考えられるからだろう。彼らは犯罪を行うことで、一時的にせよ重圧から解放される。フロイトが想定した機制は、父親を殺し母親と姦通する欲望を持つ者がエディプス・コンプレックスによる罪悪感に耐えかねて、犯罪を実行するというものである。後には秘かに罰せられる期待についてマゾヒズムが取り上げられるが、それは犯罪の問題から離れる。
このエディプス・コンプレックスによる説明が不十分なのは、彼自身が認める通り、空想することと実行することには大きな差がある点である。空想の中で行われた罪は、社会的には全く犯罪ではない。実行が精神的重圧感を解放することは、無意識的な葛藤が内的に抱えられず、外在化されることを意味する。これは単なる衝動の発散ではなく、現代的に言えば自己の一部分の外的対象への投影同一化である。この防衛機制は病態に関わりなく殆ど普遍的に認められるので、犯罪にまで至らせる要因は別のところに求められる。伝統的な精神医学は、反社会的行動(即犯罪とは限らない)の性格的基盤として「精神病質」の概念を作り出そうとした。それは紆余曲折を経て、今もDSM-III-Rの中に「反社会性パーソナリティ障害」(301.70)として残っている。
精神病質的パーソナリティの成因は正確には不明である。臨床単位として認めることの意味についての議論もまだ十分ではないかもしれない。一連の反社会的行動を示す者たちの集合に、脳波異常・遺伝負因・神経伝達物質・男性ホルモン・自律神経系の反応などに生物学的特徴があることは知られている。精神分析は体質因を無視しない(欲求不満への耐性の低さ・攻撃性の過剰などの概念から論じる)が、関心の焦点は患者の経験を内側から再構成することにあるので、ここでは深く立ち入らない。環境因に関しても、心的機能の様態(対象関係)が形成される極めて早期の環境に障害の源泉を認めるが、幼少期に剥奪経験(deprivation)や残酷な権威者像の存在することが指摘されているものの、一般公式を引き出すことは難しいと思われる。
イギリスの精神分析は、自我心理学と異なりパーソナリティの中にあらゆる構成成分を認めるので、パーソナリティ障害について自己愛型・境界型・分裂型..などの性格学的な分類をあまり行わない。「精神病質的」という形容は、そもそも稀だが、厳密な定義にではなく対象関係上の中心的な特徴に基づいて行われるようである。この概念の輪郭として、先に記述的研究及び自我心理学的なアプローチを参照しておく。
DSM-III-Rによる定義は、おそらく本特集のどこかで取り上げられているだろうから省略する。ヘアは、実際の犯罪者の調査から、以下の二十項目からなる「精神病質チェックリスト」を作成した。1.口の巧さ/表面的魅力。2.自己の価値についての誇大感。3.刺激への欲求/飽き易さ。4.病的な虚言。5.騙すこと/操作性。6.良心の呵責または罪悪感の欠如。7.浅薄な情緒。8.冷淡さ/共感の欠如。9.寄生的な生活様式。10.行動コントロールの乏しさ。11.乱交的性行動。12.早期の行動上の問題。13.現実的な長期目標の欠如。14.衝動性。15.無責任性。16.自己の行動の責任を取れないこと。17.多くの短期間に終わる婚姻関係。18.少年期非行。19.条件付き釈放の取消。20.犯罪の多才さ。
各項目の得点は0または1・2であり、最高40点のところで30点以上の者が、精神病質とされる。判定は本人との構造化された面接と資料からの情報に基づく。これらは、実際の受刑者から得られたデータに基づいているので、犯罪にまでは至らない性格傾向の尺度として適切であるかどうかは別の問題だが、「反社会性」の中にどのような項目が含まれるか理解できるだろう。心理的な面での大きな特徴は、何事にも自己中心的で他者への配慮がなく、虚言や操作性に葛藤が伴わないことである。
これらを包括して、何らかの単位を背景に認めることはできるだろうか。アメリカの犯罪心理学者であるメロイは、カーンバーグのパーソナリティ構造論に依拠して、精神病質的パーソナリティの構造を自己愛パーソナリティ障害の亜型であるとした。周知のように、カーンバーグは神経症型・境界型・精神病型の三型からなるパーソナリティ構造論を提唱した。彼は、同一性の統合度・防衛操作・現実検討力の三点からパーソナリティ構造の鑑別診断をする一方で、さまざまな臨床像を性格学的に分類し、性格病理の新たな精神分析的類型学を構築した(詳細は例えば"Object Relations Theory and Clinical Psychoanalysis"(邦訳『対象関係論とその臨床』岩崎学術出版社)を参照されたい)。自己愛パーソナリティ障害は、行動上境界型パーソナリティ障害に較べて社会的機能が保たれ、衝動コントロールが良いが、パーソナリティ構造は中位から低位である。特徴的な内的構造は、理想化された対象が自我理想ひいては超自我に統合されずに自己と融合し、病理的誇大自己(現実自己・理想自己・理想化された対象の融合)が形成され、他者像が貶められる一方で迫害的超自我前駆体が存在することである。
メロイは、彼の言う精神病質的パーソナリティ構造の自己愛パーソナリティ障害とは異なる特徴を、次のように挙げている。1.攻撃的衝動派生物が優勢であり、攻撃性の満足が他者と関わる唯一の意味のある様式なこと。2.より受動的で自立した、自己愛を修復する様式の欠如。3.原始的な迫害的取り入れ物または加虐的な超自我前駆体の活性化を意味する、加虐的または残酷な振る舞いの存在。4.残酷で攻撃的な主要な親としての対象に発達的に根ざす、悪性の自我理想の存在。5.より社会的に受け入れられる自我理想の超自我前駆体の存在を示す、道徳的に自己の振る舞いを正当化しようとする欲望の欠如。6.肛門-排泄的及び男根-露出的リビドー主題の両者が、他者と葛藤を起こす目標・騙す意図・その実行・勝利を知ったときの侮蔑的喜びという反復される対人関係の循環に存在すること。7.ストレス下にあるとき、抑鬱的情緒への脆弱性よりも妄想観念が出現すること。
だがこのような試みは、整合的な像よりも心理的次元における理解の難しさを示しているようである。自我心理学的な用語による描写は、構造と発生を論じるのに役立っていない。特殊な衝動性の説明には認知機構の仮説と情動の生理学が持ち出され、発達論には更に夥しい分析者の名前と概念が引用される。そこではさまざまな著者が他の力動的機制の原理としたものが、単に特徴の形容に使われ列挙されている(例えば、ウィニコットの「偽りの自己」、グラッサーの「核コンプレックス」、コフート、ガディーニ、タスティン..)。だから彼の「精神病質的パーソナリティ」の概念は、原理的解明につながるというよりも、問題に別の呼び方を与えたものと思われる。
なおカーンバーグは近年超自我病理の研究の延長として、「精神病質的転移」の概念を提唱し、その背後に重篤な病理的自己愛を認めている。この転移は、患者の嘘と治療者に不正直さを投影することが特徴的で、相互の現実の不一致を徹底的に直面化することによって治療の共通地盤を確保し、「妄想的転移」に移行させることができる。しかしカーンバーグは慎重に、「精神病質的転移」は反社会性パーソナリティ障害と積極的な関係がなく、それをこの方法で治療することはできないとしている。
3.クライン派による理解
以上に述べた特徴は、反社会的ではありながら行動に一定の均衡を保つことができる、或る程度高次の心的構造を持つ犯罪者である。それに対して、衝動的に殺人を犯すものの心的構造には、別の特徴があるように思われる。(上記の構造が合併することはありうる。)ただ犯罪は極めて多様で、同じ殺人でも倒錯の極限に位置するものから嫉妬を基盤とした家庭内で起きるもの・破局を防止する最終解決手段として選択されるものなど、形態と動機によって寄与する心的な諸因子は錯綜している。それらに単一の心的構造の障害を想定することはできない。ここでは極めて一般論的な分析となる。
1920年以降のフロイトの考え(『快感原則の彼岸』)を受け継いだクライン派の理解では、最終的に攻撃性の源は「死の本能」にある。現代のクライン派が臨床的な場面でこの概念を拠り所にすることはないが、攻撃性の様々な派生形態の背後に、それに共通する破壊的なエネルギーの存在が暗に仮定されている。また、クライン自身のポジション概念は本能論との結びつきが強い。
暴力行為は攻撃性の派生形態の一つであり、他の様々な表れがありうる。妄想分裂ポジションの水準では攻撃性は、大半は投影によって外界に反らされるが、後には生の本能と融合され合目的的な活動のエネルギーに合流する。しかし固着の仕方に応じて、一部は内向しマゾヒズムに、一部は性愛化されサディズムに転化する。心気症や事故頻発性・自傷・自殺では、投影された攻撃性が再び自己に取り入れられ、自己破壊的に働いている。晩年のクラインが特に注目した攻撃性の源は、「羨望」である。羨望もまた死の本能の現れと考えられているが、対象の良さそのものに対して向けられるので、外からの働きかけによる変化に強く抵抗する(「陰性治療反応」)。これらは暴力の等価物として、加害者の生活史と内的対象関係の展開に認めることができる。
実際に刑務所を定期的に訪問し、殺人犯と週一回数年の精神分析的精神療法を行ったウィリアムスは、殺人行為が単に衝動の行動化を示すばかりではなく、彼らの内的状況を外界へと投影し劇化していることを指摘した。彼の経験を基礎にしながら、クライン派による理解を整理しよう。特に重要な概念は、抑鬱ポジションと象徴水準・包容(containing)機能・投影同一化を中心とする対象関係である。
「妄想分裂ポジション」及び「抑鬱ポジション」は、心的な構造の発達とともに達成される経験様式である。乳児は生後三ヶ月頃には、それまで断片的だった経験をまとめて、対象から満足を得るものと欲求不満に陥るものとに分裂させ、対象との関わりを具象的に前者では「良い対象」として理想化し、後者では内的な不快が投影同一化によって外的な対象に投影され、「悪い対象」に迫害されていると経験するようになる。これが妄想分裂ポジションである。クラインの元来の考えでは、前者は生の本能の活動であり、後者は死の本能による破壊性に対する防衛である。いずれにおいても、投影-摂取のサイクルによる同一化が活発に行われている。この経験水準では迫害的不安が支配的で、自己が生き残ることに主な関心がある。良い対象の不在は直ちに悪い対象による迫害を意味する。思考と実在の区別はなく、自分の攻撃性は直ちに投影され、実際に攻撃されているように感じる。対象の良さと悪さの評価は両極端であり、理想化と攻撃性の投影によって歪められている。
乳児は六ヶ月を過ぎる頃になると、それまで部分対象として分裂して経験していた母親との関わりを、連続したものとして理解するようになる。悪い対象と思っていたものは実は良い対象でもあり、自分が敵意と攻撃性を向けてきたことが明らかとなる。乳児は罪悪感を経験し、対象を再建しようとする。ウィニコットの言葉で言えば、「対象への気遣い」が発達する。それは同時に、自己と対象の分離の過程でもある。対象との同一化は断念され、対象は象徴的に保持される。内的状態の投影が引き揚げられ、自己愛的だった対象との関係は現実性を増す。この経験水準の主要な不安は抑鬱的不安である。この抑鬱ポジションへの移行に伴って、象徴形成の能力が獲得される。それは、物と思考・行動と空想の区別がなされ、衝動が心的世界の中で意味と目的の下にコントロールされることを意味する。
以上の二ポジションは乳児期に起源があるにしても、共に一生を通じて働く心的機能の基本様式である。クラインにおいては明確でなかったが、心的機能の様態には心的構造が対応するはずであり、その形成の障害が機能の障害として現れる。
第一に抑鬱ポジションの成熟度は、暴力行為の質と量を左右する。被害的不安から暴力行為に駆り立てられると、加害者は対象の破壊によって一時の安堵を感じるが、罪悪感に襲われることは免れない。この心的な苦痛に耐える力が乏しければ乏しいほど、暴力は衝動性を増すとともに、抑鬱ポジションは妄想分裂ポジションに逆戻りしやすくなる。傷つけた対象から非難を感じるために、加害者は被害的不安に捕らわれて対象の破壊を続ける。このような過程は、主として無意識的である。逆に歯止めが掛かるのは、自分の行為の破壊性に気づき、被害的不安が抑鬱的不安すなわち罪悪感と対象への気遣いに切り替わることによってである。
しかしこの障害は、犯罪者の行動のあらゆる場面で見られるわけではない。犯罪者のパーソナリティ機能の特徴は、顕在化した精神病を合併していることがあるにしても、殆どの場合は日常的場面では何ら障害の形跡を見せず、他者に配慮し"良心的な"行動をとることができることである。別の場面で反社会的逸脱行動を示していても、葛藤を感じずパーソナリティの別な場所に同居している。問題のある領域は、パーソナリティの限定された領野である。しかし凶行に及ぶ時には、その部分がパーソナリティ全体を占拠し行動を規定する。そこで形成の障害は焦点化されており、通常パーソナリティから分裂排除されているか封入(encapsulation)されていると想定できる。
原始的な情動は通常、実際の思考や行動にまで形をなすまでに心的装置によって消化され心的世界に入り、更に無意識的反趨ハンスウによる加工と吟味を経る。心的装置のこの機能をビオンは包容機能とも夢想とも呼んだ。彼のメタ心理学の細部に立ち入るのは控えておくが、最初精神病の精神分析から発展したこの概念は、今では幅広い現象の背景に働く心的機能として理解されている。
衝動的な行動化ではこの機能は、飛び越されるか元々形成不全のために働いていない。原始的な激しい情動が心的な世界に抱えられず、直ちに投影同一化によって排出されるのは、心的なソシャクの過程が機能していないことを意味する。情動は具象的な象徴水準のまま行動化されている。なまの情動は通常心的な世界で夢や空想の機能を経て消化される。空想の過程は、緩衝材の役割を果たす。そこでは、現実検討は不十分なままにしても一定の満足によって衝動性が薄められる。暴力的行動の突出する人間では攻撃性を消化/昇華する過程に欠陥があり、経験を内在化できない。そこにはハンスウと吟味が介在しないばかりでなく、空想と現実との区別は困難である。その象徴形成の水準は、実在するものの象徴(symbol)ではなく、象徴等置(symbolic equation)である。この機能と障害は、最初分裂病者に関して言われたが、実際には極度のストレス下や原始的思考の中で頻繁に現れている。強い外傷は、象徴機能に局部的に打撃を与える。例えば直接経験のない者にとって天然災害や暴行の新聞記事は幾つかの記事の一つに過ぎないが、被害者には自分の経験が生々しく甦り、あたかも今また起きたかのように頭の全てをそれで占められ、思考の機能が麻痺してしまう。自己の可能な行動選択(思考上の自由)は、殆ど失われる。凶行にまで至る者において、空想は思考の代理や試みの役割を果たさないので、代償的満足をもたらさずかえって欲求不満を募らせ、衝動性を濃縮する。その解消の手段は、極めて直接的・具象的な行動化である。彼は空想を外在化させることによって初めて、心的な負荷から多少の解放を得る。極端な場合、施設への収容が衝動の物理的な容器として経験される。
これらの経験から学ぶことの障害は、一つには心的な容器(container)と内容(contained)の関係から考えられる。内容があまりに破壊的な場合、それを包容しようとする容器は損傷を受けるか、そもそも適切に育つことができない。容器の形成が不十分な場合には、些細な欲求不満にも耐えることができない。その時にどのような自己の一部を外的対象に投影するかは、支配的な対象関係が何かに依拠する。また暴力がどこまでエスカレートするかは、先に述べたように抑鬱ポジションの達成度と集団の力動が関与する(「罪悪感は集団の構成員の数によって分割されるのに対して、残酷さと暴力は集団の構成員の数によって増幅する」)。
「投影同一化」の概念は、当初クラインにおいては、自我の一部を対象に押し入らせてそれを乗っ取り支配する攻撃的な対象関係の基本形だった。その後の理解の発展によって、正常な母子交流の基盤に位置するものとして認められ、更に精神病的な形態・逆転移との関係などが研究された。この機制は、自己が自分に属することの耐えられない部分を対象の中に投影し、相手に経験させることによってその部分をコントロールしようとすることが基本である。
この概念は、加害者と被害者の相互作用を理解する助けとなる。ウィリアムスは、恋人に銃を向けられた少年が彼女を射殺した事件を例に挙げている。彼女の父親はファシストで、少年が銃を携帯することを条件としてデートを許していた。後からの調べによって、子供時代の彼女は極めて抑鬱的で、自殺が予想されていたことが分かった。彼女の銃は空砲だった。事件は、彼女から死の恐怖を投影された加害者が、反射的に行動したことによって起こった。それは彼女が父親との間で経験したものだった。ウィリアムスはここでの暴力を恐慌と絶望の表現と理解している。それは彼女の父親がファシズムへの同一化によって覆っているものであり、少年もまた彼女の父親に同一化したとも言えるだろう。ただ最終的には、少年に投影された恐怖を行動化しない心的な容量の欠けていたことが反復の結実を招いた。
1991年に勤務先の小児病棟で幼児を次々に襲った(インシュリンの注射等によって四人を殺害、九人に重大な後遺症の残る障害を与えた)ビバリー・アリットは、ミュンヒハウゼン症候群と診断された。母親が乳児に暴行を加えては病院に連れていく、「代人によるミュンヒハウゼン症候群」(Munchhausen syndrome by proxy)では、投影同一化の機制が顕著である。乳児の突然死として処理されることも多く、気づかれたときには既に何人も原因不明の死を繰り返していることがある。望まない出産を背景にして、さまざまな投影同一化を与えられた赤ん坊が攻撃される。それは自分の依存性を押し殺すことであり、かつて自分の同胞を生んだ母親の産出力に対する羨望に基づく破壊でもある。彼女自身が、最早期に類似の攻撃を受け、文字通り息の詰まる体験をしていた可能性がある。自分が窒息させた乳児を何度も病院に連れて行くのは、医療関係者を欺くためである。これは、自分の情動を実感できず現実感のない世界に住む患者が、良い対象を求めて接近しては羨望によってそれを破壊しているのである。患者の現実感の薄さはヒステリーとして理解されがちだが、象徴機能の障害の一種であると思われる。
犯罪において、加害者は加虐-被虐的関係を下敷きとして加虐的部分に同一化する。加害者自身が無意識に憎む自己の部分は、犠牲者に投影され攻撃される。殺人=対象の完全な破壊は、そのように排出した部分が再び自己に戻ってこないようにするためである。加害者は意識的には特別に憎悪を抱いていない犠牲者を選択することも多いが、加害者から見て被害者には、自己の虐待され脆弱な部分や迫害的な内的対象に合致するところがある。加害者は被害者に対して無意識に自分の暴力性を投影して、相手を攻撃することを正当化する。加害者側の恐怖心もまた被害者に投影され、それが暴力の引き金となる。
クライン派ではないがボラスは、誘拐殺人犯と犠牲者の心的な相互作用を、以下の段階に分析している。1.「良いもの」の提供。2.受け取る側にとっての可能性空間。3.申し出を受け入れた犠牲者の悪性の依存。4.裏切り、犠牲者にとっての衝撃、自己の殺害。これが殺人者の乳児的状況であり、愛情の喪失と憎悪の誕生が交錯した外傷の瞬間である。犠牲者が経験させられる絶望は、加害者が感じた耐え難く抱え難い感情の投影同一化である。
以上の分析は、心的装置の形成と機能を論じているが主として衝動の処理全般に関係した定性的なものである。パーソナリティの機能と構造に関しては、更に対象関係を研究する必要がある。だがそれは厳密には治療関係の中においてしか確認できないものであり、実際の犯罪者の精神療法の詳細な報告はない(簡略なものは4.で紹介する)ので、ジョゼフによる犯罪にまで至らない「精神病質者」の対象関係の研究を参照して、そこから示唆されることを見ることにする。
患者は、学業にも将来にも興味をなくし、非行集団に加わりかかった16才の青年である。彼には神経症症状も精神病症状もなかったが、性格形成上の障害がはっきりしていた。彼は安易に金を儲けることばかり考え、両親に対して極めて要求がましくあらゆる物をたかるが、それらを活かすことを一切しなかった。そのことに意識上罪悪感はなかった。彼の情緒は不安定で衝動的で、仲間の影響を簡単に受けた。自分のことは人気者だと思っていたが、本当の友人は一人もいなかった。彼は目標とする職業として、弁護士か仕出し屋と言ったが、それは両親の仕事を挙げたのだった。すぐに彼は第三の候補としてジョゼフに、精神分析者を挙げた。
彼の分析を通じて、ジョゼフは1.如何なる緊張にも全く耐えられないこと、2.対象に対する特有の態度、3.犯罪に至らずに均衡を維持するのに寄与している防衛の組み合わせを指摘している。1.には、内的な葛藤と不安に直面することを行動化によって避けるという防衛的な意味がある。2.は、貪欲さと羨望の間の特殊な関係に基づいている。分析での現れは、両親にどれだけ費用の負担が掛かろうが面接を求める一方で、それが手に入ると対象が良いものを与えることに強い羨望が沸き、分析を侮蔑し浪費し台無しにする態度である。
3.が彼女の論文の主題である。彼はその貪欲さ・搾取・衝動性にも関わらず、犯罪者ではない。また、対象に羨望を向けて万能的に体内化し気遣いをせずに残酷に扱い、結果的に被害的になるのに、精神病者でもない。それは、精神病質的機制によって、深い罪悪感・抑鬱・迫害・実際の犯罪が回避されているからである。この均衡を保つ機制は、広範に及ぶ分裂と過剰な投影・取り入れ同一化に基づく、強力な万能的空想の維持と実際の劇化である。
彼は万能的空想によって、例えば勉強している時には、初学者の立場を一気に飛ばして教科書の執筆者のつもりになった。だから教師は侮蔑の対象であり、勉強の必要もなくいざとなれば二・三週間で追いつくはずなのだった。同じ態度は分析者への転移に現れた。理想的な対象を取り入れることによって、彼は自分の小ささと抑鬱感情を払いのけることができた。そして浪費的で落第した自分は教師と分析者に投影した。友人選択においても、自分の悪い部分を排除し対象に投影するこの機制が働いていた。彼は盗みや非行を働く友人とばかり付き合うことによって、一方では衝動を満足させて自分の犯罪性をコントロールし、罪悪感を免れようとした。
彼の中には同時に迫害的な内的対象が存在し、彼はそれと内的に直面することを逃れるために、警察や両親・教師に投影した。投影によって更に迫害を経験すると、彼は対象から遁走してしまうかそれを躁的に嘲笑することによって防衛しようとした。万能感と投影同一化による防衛が機能せず、自分の内的現実に直面しなければならないときには、彼は極度に怒ったり喚いたり崩れたかのように混乱を示したりした。そこでは自己と内的対象が広範に断片化されて投影され、精神病的な破綻そのものは防衛されていると理解された。
彼は無意識的罪悪感から、内的な対象関係を行動化した。より安定し洞察を得て適応も良くなったときに、彼は沸騰した油を足にかけて火傷し、手の指先を切り落とした。これは彼を焼き焦がし切りつける、彼の苛酷な内的対象を表した。
クライン派の内的対象とは、無意識的空想に基づく心的機能が具象的な形態を採ったものである。超自我はその一つである。しかしそれは単に心理的存在ではない。それらは体内にあるように表象されるが、実際には経験される外界はその展開である。内的対象は投影同一化を通して外在化し、それらの力動的関係が現実を構成する。夢は内的対象の様態を反映する。内的現実に独立した外的現実が存在しないところで、自我心理学のように内的な構造を切り離して語ることには意味がない。この点では、今でもクライン派には外的現実と内的現実の区別は殆どないに等しい。フロイトの第二局所論(超自我-自我-イド)は極めて単純なモデルで、現代のパーソナリティ障害の力動の細部を記述できない。多様で複雑な内的対象は、そのままパーソナリティの複雑さの実状である。「内的対象」概念は、臨床経験を肌理細かく観察し記述するのに適していた。しかしながら一方ではそれは、クラインに対する批判にあったように羅列的で無構造の様相を呈した。それでも、内的対象の或る種の組み合わせは、まとまりを持って働くのが認められる。ジョゼフの「心的均衡」('Psychic Equilibrium')論は、スタイナーらの「病理組織」('Pathological Organization')論と併せて、クライン派流にパーソナリティの構造を捉えようとする試みである。
症例に戻ると、夢の分析から彼の万能感は、父親に盗まれてペニスと融合した母親の乳房を自分の物として、母親の喪失と拒絶を否認することにあると示された。彼の罪悪感と被害的不安は、良い対象を盗み、羨望によって汚すことに関わっていた。彼は準犯罪的な行為を犯して処罰される状況を現実に作ることによって、この罪悪感と抑鬱を回避した。結果としてそれは欲求不満をもたらし、また貪欲さがかき立てられた。精神病質的な機制の均衡は、このような循環によって保たれる。
均衡を維持する力動の研究は、逆に犯罪者がなぜ破綻するかを示唆する。実際に犯罪に至る者では、この均衡は「破局的変化」を被ると言える。彼らが外罰的なのは、苛酷な内的対象を常に投影しておかねばならないからである。彼らが内的対象の迫害から自由になるには、単に日常的場面で劇化されるだけでは不十分で、対象に爆発的な投影-排出をすること、内的対象の投影された犠牲者を実際に切りつけ、殺害することが必要なのだろう。彼らの羨望の強さもまた、均衡の破綻を招く。
4.終わりに
詳論で殆ど触れなかった環境の剥奪は、非行の大きな要因である。二次利得の固まる前の、思春期の段階ではこの調整もまた治療的意義が大きいだろう。しかし内在する破壊性の扱いには、クライン派流のアプローチが必要と思われる。
最後にウィリアムスの記載した事例を参考として紹介しておく。彼によれば治療は、野蛮な内的対象像をもう一度飼い馴らす機会である。別の言い方をすれば、分裂と投影の過程を減少させ、統合をもたらすことである。彼は週一回の面接に限定された構造の中で、夢分析を活用した(記録と連想を書かせた)。以下から理解とアプローチの概略は分かると思われるが、転移の中でどのように破壊的な部分が統合されたかという、精神療法の中核的な部分は書かれていないことに注意する必要がある。また解釈に乳房・ペニス等の解剖学的用語が頻出するのは、ジョゼフの論文(1960)も含めて60年代70年代のクライン派の特徴である。現代のクライン派ではそれらの機能の側面が強調されている。
「25才の男性は、彼の若い妻を毒殺したと有罪判決を受けた。彼女は二度目の妊娠中で、結婚前に妊娠した息子が既に一人いた。彼女は妻としてはだらしなく、しばしば息子を汚れたまま放置していた。夫は完全主義者で、几帳面で小うるさく強迫的だった。彼は支配的で我が物顔の母親に、過度に依存する関係にあった。母親は彼の妻を嫌い、自分の夫を軽蔑していた。後に殺された少女の気分は情動的に不安定だったが、底流には絶望と無力感があり、それは剥奪され動揺した早期の家族環境に由来していた。彼女はしばしば敵意を示し、被害的な振る舞いをした。夫である囚人患者にも、同様の情動が底流にあり、実際に何度か自殺企図をしていた。犯行へと導いたのは、妻が二度目の妊娠に狂乱し、中絶のために荒療治をしろと夫に迫った困難な状況だった。彼は彼の弁では自分用に毒薬を調達したが、彼女に責めたてられて困ったとき、彼は突然代わりに彼女に、『これがお前のして欲しいことをその通りやってくれるよ』と言って毒を渡した。妻が崩れ落ちたとき彼は後悔に襲われて、彼女が死なないように願ったが、死んだときには少しの間安息感があり、次いで迫害されているように感じ始めた。生活史が語られ転移が発展するにつれて、彼がわがままで自己中心的な自己愛的な男で、侮辱に敏感で欲求不満に耐えられず、怒りっぽく愚痴っぽいことが明らかになり始めた。これらの特徴のせいで、彼はスタッフにも囚人にも非常に不評になった。幸いに彼は知的だった。にもかかわらず、彼が次の夢を見るまで進展は非常にゆっくり立った。そこでは、彼女の乳房及び自分の内側に赤ん坊を作る彼女の能力への羨望、そして中でも、その能力を評価するか象徴的に分かつことさえ彼女ができないことが、彼の妻を殺す主な動機だったと非常にはっきりと示された。彼女は自分が既に生んだ赤ん坊を大切に育てることさえできなかった。爆発しそうな危機を破裂させた最終要因は、彼女が胎内の胎児を殺す気でいたことだった。この生まれつつある赤ん坊は、彼の一部でもあった。彼は一人息子で、まだ生まれていない赤ん坊への妻の破壊的な意図は、彼女の行動と結びついて、母親が生んだかもしれない他の赤ん坊に対する彼の幼児期の願望を満たした。だから彼は、妻の中の彼自身の内部にも表現されていたもの、すなわち現実または空想の生まれていない赤ん坊に対して破壊的に駆り立てられた部分を攻撃した。彼の別の部分は胎児に同一化し、それを保護しようと願った。もちろんそれは或る程度、彼のペニスを表し、力を象徴していた。別の水準では、彼は妻を殺すことによって、彼女の中にある自分の望まない部分を破壊できたと信じた。それには赤ん坊が含まれていた。事態のこの込み入った状態が転移に持ち込まれ、ワークスルーされるにつれて、好ましい変化が彼の中に生じ始めた。初め彼は妻の良かったと感じる側面を認め始め、次いで母親の理想化の崩壊が生じた。それから彼は、あたかも妻が彼の内部に生きているかのように振る舞い始め、自分が彼女を所有し彼女の創造性を支配しているように感じ始めた。次の段階には、二つの特徴的な事柄が生じた。彼は飛ぶモデル飛行機を非常にうまく作り始め、それが壊れたときにはたいへん巧みに修理した。彼は非常に抑鬱的になるようにもなった。抑鬱は彼にとって耐え難く猜疑的態度に逃げ込むことを常としていたので、この時点で彼は容易に治療を中止することもできただろう。しかし彼は続けるように自分をすることができ、他の人々とのより良い関係をより現実的な仕方で持ち始めた。彼はまた、自分が自分の欲しない部分をどのように妻の中に投影してそれを殺したかを理解し、それが内的な迫害者に関係し、羨望と関連のある自殺的な部分であることを理解した。彼は次第に、刑務所の中で猜疑的な行動化をすぐには起こさずに、より抑鬱的な不安に耐えられるようになった。刑務所の職員は、彼の様子と振る舞いに、耐性と成熟が増したことを評し始めた。彼は刑務所の中の、責任のある仕事のために選ばれた。彼は身体的に健康に見え始め、雲脂と湿疹・肛門掻痒症から治り始めた。しかし彼の夢は、彼が女性と関われるのは唯一殺人しかないのではないかという不安を強く示した。この態度は、分裂排除された支配的で操作的な彼の母親の悪魔のような像と関連していることが明らかとなった。それまで彼は、母親のこの側面に気づかないで、それを行動化していた。彼の囚人仲間達との関係の大きな改善をもたらしたのは、この状況のワークスルーだった。完結したとはとても言えないにせよ、治療では重要な前進がなされたと考えられ、彼の性格はより統合され、獲得された地盤の少なくとも一部は堅固に保持されている。」
先の少年二人の釈放は、当初早くて十数年後になるだろうと推測されていたが、八年後の釈放が内示されていることが分かり、現在それに対して様々な意見が交わされている。
文献
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