書評: |
Robert Caper 著 |
A Mind of One's Own. A Kleinian View of Self and Object. |
(The New Library of Psychoanalysis, No.32) |
|
ロバート・ケーパー著 『自分自身の心:クライン派から見た自己と対象』 |
邦訳題:『米国クライン派の臨床―自分自身のこころ』) |
恵泉女学園大学/長谷川病院/代官山心理・分析オフィス 福本 修
|
本紹介は、筆者がまだタヴィストック・クリニックに所属していた頃、原書刊行の直後にまとめたものである。表題の論文は、既に英国クライン派の中で話題となっていた。2011年8月に日本語訳が登場したが、当時のクライン派の中での評価を反映しているところがあるので、1999年の「紹介」を紹介することにする。末尾の価格も、初版時のものである。
* * *
本書は、The New Library of Psychoanalysis叢書の第32巻として1999年に刊行された、カリフォルニア在住のクライン派の分析者Robert Caperの論文集である。彼の著作には他に、FreudからKleinへの精神分析の発展を描いた“Immaterial Facts: Freud’s Discovery of Psychic Reality and Klein's Development of His Work”(1988)がある。著者は成人及び児童の分析者であり、ロンドンで教育分析を受けた経験を持つが、ロンドン・クライン派からは比較的隔離された環境で活動を続けてきた。彼の最初の著作は、副題の通りアメリカの読者にKleinの精神分析をFreudからの流れに位置づけ紹介しようとしたものである。二冊目の表題となった論文“A Mind of One's Own”は、1997年にInternational Journal of Psycho-Analysisに掲載されたときから、クライン派の間では「この20年間に発表されたあらゆる論文の中で最も重要なもの」とも言われてきた。他の論文もまた、「精神分析とは何か」という問いに対して新展望を開いたground-breakingと賞賛されるほど、理論的に明解かつ刺激に満ちたものである。このたび最近の論文が一冊に纏められ、著者の見解を一望に収めることができるようになった機会に、紹介として取り上げたい。そこには以下に述べるように、Bionの考察を咀嚼して臨床場面に展開しているさまが認められ、Bionを理解するのにも有用である。更に、クライン派ばかりでなく精神分析のさまざまな流派に対する寸評が含まれており、その意味でも興味深いものがある。(括弧内は、原書のページに対応する。)
Caperは本書で、彼が心理的発達にとって何を重要と考えているか、精神分析はどのように関わるか、それはどのように概念化されるか、を著そうとしている。著者の基本的な主張は、「自己と対象を区別することは、心理的発達にとって重要な意味を持つ」ということである。自己と対象の区別は同時に、内的現実と外的現実・真実と虚偽・公平な探求と道徳的教義を区別することである。最終的にそれは、「自分自身の心を持つこと」に通じる。では、精神分析はそれを助けるために、何をしているのだろうか。その明確化のために、Caperは精神分析と「暗示suggestion」の対比から始める。
暗示と解釈
Stracheyによれば、精神分析の初期には、精神分析は一種の教育であり、分析者の役割は患者の抑圧された考えを、素材から知的に推測することだった。症状や夢の象徴解釈は、これに相当する。Caperはそこでの治療者の役割を、「下手な暗示家」と呼んでいる。それから治療者は、患者の治療者への無意識的関係に気づいたので、陽性関係を利用し発展させようとした。これは、「上手な暗示家」のすることである。つまり、治療者は転移解釈をしないで患者の強い愛情または恐怖の裏返しによる理想化を引き受け、患者の側は、治療者の考えを自分の経験に基づいてではなく、暗示として受け入れようとした。しかし実際には、治療者は陽性関係を壊す恐れのあることを持ち出せなくなり、患者の期待の範囲の内で動くことになる。暗示の実態は、患者の万能感に合わせて思考を放棄させ現実を否認することである。CaperはBionを参照して、治療関係が「二人精神病」「基礎仮定集団」となっていると論じる。
それに対して精神分析は、転移関係の両面を取り上げることで、「作業集団」となることを目指している。すなわち、内的・外的現実を混同なく経験することである。Freudの指摘したように、転移神経症は元来の神経症と同じ源に由来するので、現在の患者-治療者関係の性質を分析の焦点とする転移分析には、本質的な効果が期待される。
その転移神経症は、どのようにして解消されるだろうか。Caperの見方では、それを解明したのがKlein-Stracheyである。Kleinは、超自我がFreudが考えたよりも早期に形成されることばかりでなく、現在も活動し力を及ぼしていることを認めた。本能衝動の投影と摂取の繰り返しによって、外的対象と超自我は歪曲されたものになりうる。Stracheyの言う「変容形成解釈mutative interpretation」とは、病理的超自我の投影と摂取による悪循環に介入することである。精紳分析的な解釈は、Stracheyの理解では二段階に分けられる。第一は、患者のイド衝動が分析者に投影されて、分析者が「外的世界における患者の空想対象」となることである。患者にとってそれが現実と取り違えられるほど、分析者との関係が生きたものとなることは重要である。第二は、患者が無意識的に割り当てる役割を、分析者が演じる代わりにそれを観察し、言語的に表現することである。その結果、分析者は患者の投影から離れてより合理的で安全な対象となる。それは更に深い投影を招き、新たな解釈の機会を提供する。
Caperは、分析者の存在や精神分析が人工的に感じられるのはありがちな誤解で、それは投影された役割に添わないからであって、実際にはそのおかげで分析者は、より現実的な存在となっていると指摘する。こう述べたからといって、分析者が情動的に関わらず、超然としているということではない。それは逆で、転移を理解するためには分析者は自分及び患者の情動状態に開かれていなければならない。
分析者が解釈をしても、患者がそれを「かくあるべき」という示唆/暗示として受け取る危険は常にある。Caperは暗示に非分析的効用があることを否定していないが、その弊害を指摘する。暗示によって良い関係のみを維持しようとすると、分析者の方には理想化を演じ続けることで“燃え尽き”が、患者の方には内的世界の分裂を促し、悪い関係を分析関係の外に投影することが起きる。――すると、支持的精神療法にも長期的効用があるといった報告とはどう関連または齟齬するのか、興味深い点が残されているように思われる。
続いてCaperは、精神分析から「治癒の手段」という理想化を削ぎ落とそうとする。精神分析が治癒を求めないと言う時、それは患者の苦境や障害に冷淡になるということではなくて、その治癒力に対して現実的かつ謙虚になる、ということである。Freudは、「私は傷の手当てをする、それを治すのは神だ、」という17世紀の外科医の言葉を引用した。傷の手当てに相当する精神分析の作業は、Caperの考えでは、患者が自己自身との接触を回復するのを助けることであり、具体的には、分裂投影されたパーソナリティの諸部分を解釈することである。そしてその一つが、治癒を求める万能感の投影である。暗示は、単に治療者から言葉を受け取ることで問題が解決するかのような錯覚を与える。だが障害を描写したところで、実際には障害の現実が変わるわけではない。その先それに取り組むことは、患者自身の課題である。治療者がそれ以上のことをできると思うのは、現実を見失って「二人精神病」に参加することだとCaperは指摘する。
自己心理学批判
以上の、本書の一部の紹介からも、Caperが精神分析について極めてクリアカットな見方をしていることが分かるだろう。そこには、アメリカにおいて精神分析が遥か昔に精神医学から切り離されたこと(p.17)が反映している。しかし、Caperはそこに留まらず、アメリカで隆盛な精神分析の他の流派、Kohut、Ogden、Stolorowらにも批判を加える。彼の関心は、「何が精神分析であるか」を明らかにすることとともに、「そうではないもの」を区別することにあるように見える。ただ、いずれも短いコメントなので、批判対象の全体を包括的に評価していない恨みはある。
Kohutへの批判は、彼の論文「Z氏の二つの分析」を取り上げて行われる。そこでKohutは、自分が或る青年Zに行なった二度の精神分析において、最初古典的自我心理学の枠で分析したために見逃された共感的な自己対象への欲求が、二回目の自己心理学的分析によってどう理解されるようになったかを記述している。そこにCaperが見る問題は、どちらの分析でも前分析者の問題(理論とモラルの押し付け)と患者の母親の問題(パラノイアに罹り自分の欲求不満を患者に満たさせようとした)ばかりが取り上げられ、それを患者の投影同一化として理解していない点である。つまり、患者の外に悪い対象を作り上げて、パーソナリティの分裂(患者の破壊性を排除すること)を促している点である。その結果、対象は本当に依存するには危険なままとなり、患者には自己愛的傾向が残っている。
以上は、実はCaperがこの章の初出時(1994)に指摘したことである。その後出版(1999)までの間に、アメリカでよく知られるようになったらしく、以下を事実として記載している。それは、Z氏がKohut自身だということである(Heinzから採ったとも言われる)。そうすると、「どちらも週五回、約四年間行われた」(Kohut,1979)とは一体何のことだろうか。最初の分析は自分で行なったものではないし、後のものは本当の分析ではなく自己分析≠ナある(途中、クリスマス休暇があったりするが・・)。前者が不十分で後者が適切だったとすると、自分でやった方がうまくいった、と言っているようにも聞こえる。もちろん、Kohutが自分の前分析者との経験を超えて、彼自身の見解を表明するに至ったのは構わないが、なぜこのような形式を採ったのか、疑問が残る。これは自己心理学の内部では、どのように総括されているのだろうか。但し、Caperの批判はモラルの問題ではなくて、「自己愛の裏側にあるパラノイアが投影されたまま分析されていない」という点にある。それに加えて、記憶に基づいて過去を再構成することの危険も指摘できるだろう。
投影同一化と精神分析的事実
精紳分析的な解釈が患者をどう助けるかという問題に戻ろう。「分裂投影されたパーソナリティの諸部分の解釈」がしているのは、治療者が言葉によって患者のパーソナリティの分裂を実際に統合させていると思わせたり(=暗示)、患者を健康へと追い立てたりすることではなく、その時その場での患者の心の状態についての理解を伝える描写である。その指摘をどう受け取りどう使うかは、患者に任されている。最終責任は、患者にある。その際、良く見える面を促そうとしたり悪く見える面を抑えようとしたりすることは、治療者の領分ではない。分析者がこのような意味での解釈にのみ専念することは、冷淡で非人間的にさえ見えるが、分析者が無意識の世界に怯むことなく探索できるということは、患者の健康な面にとっては大いなる安堵であることをCaperは指摘する。以上は、Bionの「記憶なく欲望なく理解なく」を思い起こさせる。そこには、患者の内的世界から何が現れてくるかについて、分析者が予め知ることはできないという限界の認識が反映している。
しかしながら、解釈は実際には単なる描写ではない。それを言明することで、病理的防衛を障害として取り上げており、取り除いた方が好ましいことを示唆している。その点では、解釈は外科的切除に似ている(p.29)。また、上のような精神分析理解は、治療者が逆転移を持つべきではない或いは控えるようにすべきであるといった教条ではない。解釈以外の行為への逸脱や行動化は避けられないものであるばかりでなく、更に分析する機会を提供する。ただ、それは技法ではなく分析者の態度・心的状態なので、分析者が自分の精神分析を通じて破壊性や万能感を理解しない限り(つまり、それらを行動化させる不安を包容できるようにならない限り)、到達し難い境地であるとCaperは指摘している。
次にCaperは、そのような解釈(Stracheyの用語では、変容形成解釈)を行なう際の治療者側の困難や心的状態に、関心を向ける。パーソナリティの分裂と投影という機制は、投影同一化の理解に基づいている。その今日的基礎を与えたのは、言うまでもなくBionである。彼のモデル:患者による投影同一化―分析者による包容(containment)―治療者による投影の解釈―患者によるその取り入れ、というサイクルは、治療機序として広く知られるようになった。Caperが付け加えるのは、治療者にとって投影同一化の解釈が容易なものではないことである。患者の投影を受けた治療者は、一種の知的後退を被り、批判力が麻痺している。その状態を脱却させる現実を踏まえた解釈は、両者の良い♀ヨ係を壊しているかの罪悪感を治療者に感じさせる。治療者は本当は釈然としないところがあるのに、患者に同感している。Caperはこれを、患者と治療者の超自我が融合して、前者が治療者の自我を支配しているからだと指摘する。その結果、超自我からの非難という道徳的規範が、自我の科学的・現実的関心を凌駕する。
ここでもまた、一種の催眠状態が認められる。それに対して、精紳分析的な関係はどのようなものであり、患者と治療者はそれぞれどのような心的状態にあるだろうか。Caperはこの問題を、「臨床的事実とは何か」と題されたシンポジウムに寄せた論文で取り上げる(第5章)。この点は、BionがL・H・Kという結合や「精神分析的対象」を抽出したのを受けて、更に臨床的に捉えようとしているように見える。それと同時に、精神分析の流派の違いを超えた「精神分析的事実」が存在するのか、それとも基本的な事実の認定が一致しないほど各流派は別個のものなのか、という問いを含んでいる。
彼の議論はこうである:近代科学の「事実」は、素朴な観察ではなくて理論体系に即して設定された観察装置によって見出されるものである。この装置が確かであれば、新たな観察が既知のデータと矛盾するものであっても、今後解明されるべき事実として尊重される。精神分析においても、本当に精神分析が行われているのか(疑似分析になっていないのか)という指標が、まず重要である。彼は、ある患者が二年半の分析の間知っていることとして転移≠語ってきたものの、それを実際に行なってきたことに初めて気づいたときの情緒状態を取り上げて、次のように言う。「私は、誰が誰であり面接の中で誰が何をしているかについて明瞭であることと悲しさが組み合わさった、この情動的布置を、精神分析が成立していることの基準として、よってそこで生まれるのが精神分析的事実であるということを提起したい」(p.50)。これは、Bionが「分析者も被分析者も、分析の親密な関係の中にいながらいかなる時にも孤立の感覚を失ってはならない」(『精神分析の要素』第4章)と述べたことに対応している。Caperは、両者に当て嵌まるこの「分析的禁欲原則」を、患者と分析者が共謀しないための要件と見なしている。彼が挙げるもう一つの例は、解釈が洞察をもたらし患者は満足したのに、羨望による内的な攻撃から理解が後退した患者である。Caperはこの反応を、Meltzerに反対して羨望の役割を強調するものの、彼の概念「美的葛藤aesthetic conflict」と結び付け、精神分析的経験と見なしている。――このように彼は、セッションにおける情動状態こそが精神分析における参照点であるとしている。以上の二点が選ばれた理由は明記されていないが、それぞれ、PS→D、D→PSに対応するからだと思われる。
転移分析と無意識的妄想
第六章「心的現実と転移分析」では、Caperは患者の心的現実にアプローチしそれを理解する最も精神分析的な方法として、分析者の解釈を患者がどう変形するかへの注目を挙げる。それは面接室の中での直接経験であり、それを更に解釈することで、患者の現在の生きた対象関係を扱うことができる。患者が持つ他の面接外での関係で果たす役割は、このhere&nowで患者がアクティヴに寄与していることに基づいている。いわゆる生活史や過去の人物像は、むしろ現在の対象関係による混乱や歪曲を含んでおり、本当にどのような経験だったのかについてかなり正確なことが分かるのは、治療の終結期にである。
それに対して転移への別のアプローチとして、1.患者による過去についての言明に基づく方法、2.患者による分析者についての言明に基づく方法、3.「間主観性」あるいは「分析的第三者」として両者の間に位置づける方法があるが、いずれも、患者本人が寄与している責任を明確に取り上げていないと批判される(p.66-67)。それは耐え難い非難が感じられるからだが、言い換えれば、蒼古的超自我について理解を進めることを逃している。逆に蒼古的超自我を分析することができるならば、と言うことは分析者にそれが転移される被害的paranoid転移を分析できるならば、患者は対象関係を分裂させずに済むことになる。
精神分析の本質と焦点を明確にしようとするCaperは、精神分析ではないと思われるものに批判を加えてきた。Freudもまた、無謬ではない。Freudが持ち込んだのは、発達早期の原始的心的状態と精紳病理的状態の混同である。成人の病気は正常の早期段階への退行や固着ではなく、異常な状態からの前進の欠如である(p.72)。その異常な状態とは、万能的な無意識的空想が支配し自己愛的同一化のために他者と自己の区別がなく、経験から学ぶことができない状態である。Freudが「快感原則」と呼んだものは発達早期の心性に対応せず、むしろパーソナリティの精神病的部分の法則である。Caperは万能的な無意識的空想をMoney-Kyrle(1968)に倣って「無意識的妄想」と呼び、通常の無意識的空想と区別している。その特徴は、知覚による訂正を受け付けないことである。Bionが挙げたそのような精神病的機制は、「展望の逆転」「現実的投影同一化」「幻覚症における変形」である。「妄想」の意味は後に更に詳しく論じられるが、それを病理として摘出する解釈は、患者に相当の苦痛と不安をもたらすことを、分析者も覚悟する必要がある。
Freudは小児性欲と倒錯を同列に扱うことによって、後者の本質的な破壊性に目をつぶったことになった。その点を明らかにしたのは、Meltzer及びStollerである。倒錯は成長の可能性を含んだ愛情の原始的形態ではなく、対象関係を破壊するものである。これを指摘することが苦痛を伴い回避されがちなのは、その解釈が患者に、自分の「妄想」が如何に成長を阻害してきたかを直面させるからである。Caperは、ここで必要なのは回避ではなくtactであると述べている。
自己と対象の区別の重要性とその障害は、遊ぶことの問題にも関わる。遊びを通じて、内的現実に触れることができ、またそれが表現されることは、よく知られている。Caperは、外的現実との関係においてもまた、遊びがその実験的な性格によって現実と関わる必須の手段であることを論じる(第八章「遊び・創造性・実地練習」)。精神病者の空想では、それが妄想的確信によって置き換わっている。
自他の分離と自分自身の心
続いてCaperは、自己と対象の分離が成立しているかどうかということを、妄想分裂ポジションと抑鬱ポジションの差、そして両者における同一化の型・内的対象の性質の相違に結び付ける(第九章「内的対象」・第十章「自分自身の心」)。
妄想分裂ポジションにおける自己・対象の分裂は、同時に投影同一化が働くために、両者の混乱に通じる。全体対象が分裂なくそれ自身の纏まりを持つのに対して、部分対象は、対象の部分に過ぎないとともに、自己とも混同されているのが特徴的である。Caperは、投影が自己の耐え難い部分を対象に帰属させる防衛(自分が何であるかに対して)であるのに対して、同一化は自分が何であるに過ぎないかの耐え難さから、対象の属性を自分のものとする防衛である、と簡潔にまとめている。
対象喪失の喪mourningは、失われた対象が非自己であることを受け入れることである。鬱病は、対象の喪失自体によってではなく、喪失を認める能力の障害によって起きる。鬱病において世界への関心が復活しないのは、自分の思い通りにならない対象への憎悪が愛情を上回るからである。抑鬱ポジションの成立には、対象への自己愛的な憎悪を乗り越える必要がある。離乳の比喩を用いれば、自分が得ることができるのは母乳であって乳房そのものではなく、乳房は自分と分離した存在であることを受け入れなければならない。
自己と対象の区別・分離性の認識は、対象が自己を排除した第三の対象との関わりも持っていることを認めることと同じである。これはエディプス状況であり、父親が登場する。エディプス的父親は、自己が対象に侵入するのを阻止するが、自己がその欲求不満に耐えられれば、対象との絡み合いから解かれ、対象によって支配されることからも自由になり、自分自身の心を持つこと、正気を保つことに通じる。しかしこれは、投影同一化によって自己愛的関係を維持したい願望にとっては、脅威・破壊として経験される。洞察が常に自己愛の傷つきと分離の痛みをもたらすのは、その本質による。だが本当の良い対象は、自己の一部として融合するのではなく、投影を受容する能力と、投影から距離をとる能力を併せ持つものとして経験される(p.117)。
解釈・理解を行なう治療者の心の状態もまた、エディプス状況に関わる。治療者は確かに患者の投影と関わるが、それとは別に自分自身の内的対象と関わることで、患者を理解することができる。CaperはBionの「夢想reverie」を、母親/分析者が子供/患者を理解するには父親/精神分析への愛情関係がなければならない、というエディプス状況を指していたと再解釈する。このことは、次の分析者が「現実的」であることと密接に関わる。
アルファ機能と現実的対象
Caperは最後の二章で、Bionの「アルファ機能」及び「容器container理論」を取り上げる。彼は、Bionの問題意識が精神病的現象に関わることを確認する。それは言い換えれば、「考えられないものunthinkable」である。アルファ要素が意味を持ち他の要素とのつながりにあるのに対して、ベータ要素は意味を持たず他とつながらないというBionの規定から、彼は、妄想・幻覚が臨床的にベータ要素に該当すると考える。――これは、感覚印象と耐え難い情動を並置的に想定しているように見えるBionの定義の拡張ではある。Caperはアルファ機能を、非心的状態=無意味な感覚印象に意味を与えて心的状態とする「総合的アルファ機能」と、耐え難い心的状態を考えられるものとする「分析的アルファ機能」に分けて考えている(Kantの判断論を参照している)。前者は、彼の理解では、感覚的知覚を本能的欲動と交わらせて、無意識的空想(すなわちアルファ要素のまとまり)を形成する。この無意識的空想には、内的・外的現実についての仮説となる機能がある。現実感覚は、この空想が否定されたり、欲求不満を経験したりすることで発達する。
逆に、万能的投影同一化は空想と知覚を混乱させ、仮説を作り現実を吟味する能力を破壊する。Caperはこれを、Bionの「アルファ機能逆転」の代わりに「反アルファ機能」と呼ぶ。それによって生み出されるのが、耐え難い心的状態である。これは単に苦しいことではなく、妄想・幻覚のように具象的で文字通り思考できない状態である。ここで著者の指す「妄想」の意味に、留意する必要がある。それは患者に意識されている精神医学的妄想ではなく、患者の無意識的空想の中で訂正されず、万能的な力を持ち患者の心を支配し続ける信念のことである。万能的無意識的空想は、空想ではなく現実として経験され、矛盾する事実による訂正を受け付けない。Bionの言う「眺望の反転」と同じ事象である(p.76)。
精神分析の効用は、この万能的無意識的空想を、普通の空想へと変換することにある。患者は投影同一化を通じて、分析者にベータ要素の受け入れを迫る。それは二人精神病になることと同義である。包容(containing)とは、――さまざまに言われるが一つの言い方では――この無意識的妄想を、分析者が思考可能なものに変形し解釈することである。Caperはこれを「分析的アルファ機能」と呼び、それを容器の機能の本質であるとする。この過程は従来から「耐え難い情動を解毒・中和して返す」などと描写されているが、それは彼によれば、分析者が分析的関係において「現実的realistic」となり、誰が誰かについての混乱を解消することである。分析者が現実的であることの一つの現われは、彼が患者の心的状態について、患者による肯定・否定に依存せずに判断を下せることである。これが内的エディプス状況に関連していることは言うまでもない(cf.Britton)。
さて、Bionでよく知られているのは、乳児が「言いようのない恐怖nameless dread」を母親に投影し、消化可能な形にされたものを受け取る、というモデルだと思われる。「名づけることnaming」は、対象の実体を明らかにするとともに、情動を輪郭づけて扱えるものとする。これは、Caperの分類では「総合的アルファ機能」にも見えるが、彼の強調は明らかに、後者の「分析的アルファ機能」にある。つまり、患者が分析者によって迫害・被毒・殲滅・・の経験をしているとき、それを現実として患者に受け取らせている万能的無意識的空想を、そうも考えうるという普通の空想に変えることである。それがなぜ「誰が誰か」に関係するかというと、患者の無意識において、分析者が彼の恐ろしい支配的万能的内的対象と化しているからである。このように、Caperの理解では内的対象及び無意識的空想の存在は、彼の言う反アルファ機能が働いているときにも前提されているようである。
「現実的」が何を意味するかは、「抱えることholding」と「包容containing」の違いにも関わる。患者が分析者と被害的関係を持っているのを認めることは、holdingである。しかしCaperに言わせれば、それは患者の見方に分析者が最大限に適応しようとすることであって、分析者=現実の対象との経験を提供していない。すなわち、分析者は患者に分析者自身の新しい視点を導入しないようにしている。その結果、分析者は迫害的対象と見なされることを免れても、患者の自己愛的あるいは妄想分裂的機制には変化がない。それに対して、containingは、自己と対象の間の分離・差異と不一致を経験していく過程である。そこに絶対の安全保障はないが、耐え難さや破局の恐れに苛まされることもない、というのが現実である。彼は何度も強調しているが、解釈は「こうすべき」を一切含まない、患者の無意識の心的現実の描写で、それ以上でも以下でもない。これは共感か解釈かといった問題の立て方に対して、より深いところから一つの解答を出しているように思われる。
現実の対象には、自己愛的関係がもたらすことのない手応えがあり、本当の満足をもたらしうる。自分で自分に再保証を与えることには、原理的な限界がある。また、罪悪感を生む空想は、現実よりも迫害的なものである。それにも増して、現実的になることには、「自分自身の心を持つ」という健康さがある。
以上のように、本書は精神分析の本質について現代クライン派の立場から、最も包括的かつ根本的に解明しようとした試みの一つと理解される。記述が時に簡潔で誰にでも読みやすいものとは思われないが、明晰で刺激に満ちた本である。(Robert Caper: A Mind of One's Own. A Kleinian View of Self and Object (The New Library of Psychoanalysis, No.32). Published in 1999 by Routledge, London & New York. £17.99)
文献
Bion, Wilfred(1962):Learning from Experience, Heinemann, London.(『精神分析の方法T』法政大学出版局、1999)
Bion, Wilfred(1963):Elements of Psychoanalysis, Heinemann, London.(『精神分析の方法T』法政大学出版局、1999)
Kohut, Heinz (1979):Two analyses of Mr.Z, International Journal of Psycho-Analysis.60,3.
Britton, Ronald (1989):The missing link: parental sexuality In the Oedipus complex, in J. Steiner, ed., The Oedipus Complex Today, Karnac, London.
Meltzer, Donald (1967): The Psycho-Analytical Process, Heinemann, London.
Meltzer, Donald (1972): Sexual States of Mind, Clunie Press, Perthshire, Scotland.
Money-Kyrle, R.E. (1968):Cognitive development International Journal of Psycho-Analysis.49 691.
Strachey, James (1934[1969]): The nature of the therapeutic action of psychoanalysis, International Journal of Psycho-Analysis 50,275.
|