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『精神分析用語辞典』以後のフロイト研究
−−ジャン・ラプランシュ『精神分析の新しい基礎』−−(「イマーゴ」92-6)
福本 修
フランスの精神分析界で日本でよく紹介されるのは、正統的な一部(レボヴィシ、グリーンなど)を除くとラカン、ドルト、最近ではナシオくらいだが、他は良く言えば百花繚乱、悪く言えば四分五裂状態である。そのような中でラプランシュとポンタリスによる『精神分析用語辞典』(みすず書房)は、邦訳があるために日本では所属する文脈抜きでよく利用されている。
ラカンの登場によってフロイト理解の水準が一新したのは疑いない。彼のセミネールは当初から逸脱を含み、後には彼のマテームの展開で大半を占められるにしても、研究の出発点であり参照点なのはフロイトである。その理解のためには、フロイトのどの著作を論じているかを念頭に置いて対比しながら読まなければならない。
このようなフロイト研究の作業は、一人ラカンにのみよるものではなく、各分派が銘々行っていることである。ラプランシュは1962年から彼独自のセミネールを続けて、先頃1970年から1984年までの分を五冊にまとめた("Proble´matiques"I〜V。それに先立つ分は、『精神分析における生と死』"Vie et Mort en Psychanalyse"に反映している)。『辞典』に続く大部な注釈的研究なので、タイトルだけ見ておくと、I:「不安」、II:「去勢・象徴化」、III:「昇華」、IV:「無意識とエス」、V:「桶−−転移の超越性」である。今後日本でフロイトが改訳されることがあったとすると、その際には現在進行しつつある特異なフランス語版フロイト全集(ラカン語を全て排斥している)及びこれらを訳注に織り込むことが望ましいだろう。私はフランスでの動静の全貌を展望するほど知識がないので(興味もだが)、以下ではラプランシュが講義刊行に続いてまとめた『精神分析の新しい基礎』("Nouveaux fondements pour la psychanalyse.La se´duction originaire." par Jean Laplanche,PUF,1987.)のみを紹介する。
彼は1897年9月以前、すなわちエディプスコンプレックス発見以前のフロイトに立ち帰り、「精神分析の新しい基礎」を求めようとしている。精神分析に固有のものに至ろうとして堆積した通説を洗い流す作業を、彼はカタルシスになぞらえる。煙突掃除されるべき概念には、フロイト自身が導入したものもある。フロイトは自説を述べるにあたって、さまざまな他の領域から概念を借りた。仮説を描写する限りで、それは隠喩でありアナロジーであるが、分析の基礎とはなりえないし、そもそも本来の意味は失われている。分析の用いる比喩はいつまでも不正確で数理化されず、数学→物理学→化学→生物学のような応用関係を発展できない。
ラプランシュは、基礎として期待された隣接科学を生物学・系統発生・機械論・言語学の四種に整理して検討するがいずれにも批判的である。「系統発生」の考えは『トーテムとタブー』に顔を出す程度だが、フロイトには、原人類・原父・原家族が系統発生の原点であり、エディプスコンプレックスは氷河期の関係が個体に再出現したものであるという構想があった。近年発見された『系統発生的幻想:転移神経症展望』(木村・山谷訳「転移神経症概観」、『思想』第742号)ではそれが全面的に展開されている。ラプランシュはポンタリスとの共著("Fantasme originaire Fantasmes des origines Origines du fantasme")でその発見に先立ってフロイトからこれを発掘し、理論上の本来の場を与えた。しかし今や去勢の幻想は二次的形成物であると反対している。
代わって提唱するのは、「誘惑の一般理論」である。彼は原初の状況に存在する本質的普遍的構造に注目する。それは「語源的意味で言語を持たない新生児(in-fans)が、大人の世界に直面する場面」である。そこが問題なのは、乳幼児が無力であり自己保存のために大人からの適応を要求すること、一方大人はそれに対応しつつも、子供に対して無意識的な性的意味に満ちたシニフィアンを与える状況だからである。彼はそれを「原誘惑」(Se´duction originaire)と名づける。その本質は、子供にとって未知の意味を伝え、両親の無意識の存在を表わす点にある。授乳する母親に性的快感があることを、乳児が気づかないことはありえない。この意味するものすなわちシニフィアンは、子供にとっては理解も対応もできない。そこに無意識の性的な意味作用があること自体が謎でありかつ誘惑なのである。これに対比すれば、エディプスコンプレックスは文化に相対的なものかもしれないし、より基本と見なされる母子関係のあり方さえ、文化と時代変遷に応じて変化するかもしれない。
フロイトは1897年9月以前には、「ヒステリー者の父親による誘惑」を病因として挙げていた。しかしただそれだけではなく、そこには遭遇状況についての構造的な認識が含まれていた。それは二つの出来事(外傷的記憶像とその想起)の関係という時間的側面・外からの大人による攻撃と内からの記憶による攻撃という局所論的側面・翻訳の失敗と抑圧という言語的側面についての洞察の萌芽である。しかしこの考えは座礁し、以後フェレンチを僅かな例外として、長い間「誘惑」は抑圧された。時間的側面は「後からの効果」として残る。しかし彼はそれを原幻想によって、また原幻想のことは系統発生によって説明しようとした。内と外のトポロジーは二つの局所論に移行した。しかし内在化した異物は事実の記憶痕跡ではなく想像的な幻想として理解され、それは更に身体の興奮という生物学的な基礎へと還元されがちだった。言語と翻訳のモデルは失われている。 しかしフロイトは、母親による「早熟な誘惑」つまり養育の途中で幼児に性的な興奮を与えてしまうことを認めるようになる。だがそれが避けられないばかりでなく普遍的であること、性器に限らず口唇・肛門等の性感領域一般で起こりうること、この現象に母親の無意識が関与していることの理解は不十分である。
ラプランシュはこのような状況から、誘惑について第三の「一般理論」を構成提唱する。結局誘惑は三つの水準にある。倒錯者による小児愛的な誘惑、母親による早熟な誘惑、そして原誘惑である。原(originaire)とは、神話的時間ということではなく、残り二つの誘惑の本質でありそれらに基礎を与える現実性である。
欲動とは彼の理解では、精神と身体の構造が欲求の水準に位置づけられる個体と、大人から生まれるシニフィアンとの出会いを表わしている。そこに含まれる性的メッセージは、子供にとって支配し象徴化することができないので、無意識的な残遺が生じるのである。彼はそれを欲動の源-対象と呼ぶ。「翻訳」モデルは、最初の知覚指標を「謎のシニフィアン」と同定し、その変態(me´tabole)の様相として理解される。発生期の自我では個体の縁、特に性感領域に(身体-自我にとっても縁、外側に)位置した謎のシニフィアンは、その抑圧された残遺が、源-対象となる。その位置は生体組織にとっては内部だが、自我にとっては外部である。それは類似性と隣接性に基づく置き換えと、古いシニフィアンを抑圧する"記憶喪失的"置き換えを二極とする。
ラプランシュにおいても、言語的観点と性の重要性が精神分析の中心である。言語の位置づけがラカンと異なるのは、「無意識は言語のように構造化されている」のではなく「無意識が言語の条件をなす」ことである。言い換えれば折衷的だが、言語は精神分析を構成する世界全てにとって表現の方法である。無意識の問題は言語の多義的潜在力一般に還元されることではなく、両親個々人の無意識が関わる。また、依存や発達は彼の考えでは分析の中心ではない。自己保存の機能が性的葛藤に巻き込まれて障害されることはあるにしても、両者の水準を混同してはならない。
しかしながら、それでは非性的な(特に依存と自律を巡る)規範がどのように形成されるのか理解できない。彼に従えば抑圧を招くようなシニフィアンの取り入れは、性感領域を通じてしか行われないからである。さらに言えば、言語的な構造が身体に錨を降ろす過程そのものが、十分には説かれていない。ラカンから離れた分「言語によって構成される」という観点は曖昧になった。性を偏重した分、取り上げられないまま前提にされていることが多い。例えば象徴形成の過程は論じられていない。
臨床への言及は殆どないが、何を中核に置いて考えているのか実例のほしいところである。全てを包括するような理論は事実上ない。「新しい基礎」は結局、或る種の神経症を対象としているのだろう。ラカン派の面接時間の無構造について、包容(containing)への根本的な理解が欠けているとする批判が、実地の一端として窺える。いつかは、フランスで実際に何がどう行われているかが明らかになるのだろうか。
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