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ルイス・キャロル
福本 修
はじめに
ルイス・キャロルは、アリスの二部作を書いたチャールズ・ドジソンのペンネームである。彼の創造の産物は世界的に知られているが、同時にさまざまな伝記2)が伝えているのは、彼が特定年齢の少女にのみ関心を向けて、成人女性と関わることができなかったことである。そのことから、彼が少女愛の倒錯行為をどの程度実践したかしないかは別として、彼の創作と倒錯傾向の相互関係について論じる余地が生まれる。ただ、それは創作が彼にとって治療的≠ノ機能したことを必ずしも意味しない。創作は彼の社会的逸脱を防いだかもしれないが、倒錯行為の一線を深く踏み越えていたらまた別の創造があったかもしれない。それから、他人にとっては創造的に見えても、当人にとっては糊塗と妥協の産物かもしれない。小論では、創作と治療の関係については中立的な立場から、倒錯について考察することにする。(なお小論は拙論4)の要約であり、詳しくはそちらを参照されたい。)
I.倒錯と少女愛の問題
倒錯行為の認定は、文化や時代背景に大きく依存している。近年ではカップルの間で合意が成立している限り、Freud3)の定義に反する同性愛でも、性的対象の異常とは見なされなくなった。しかし時代変遷に関わりなく、Stoller,R.9)およびMeltzer,D.7)の強調点は今も有効である。それは、倒錯が正常範囲からの単なる逸脱ではなく、憎悪と破壊性に満ちた関係だという点である。倒錯者たちには親密な関係を築くことが困難であり、彼らは対象と情緒的に近づくと自我境界の喪失〜自己の断片化の脅威を感じる一方で、対象の不在には耐え難い枯渇を感じ、対象との原初的な一体感を理想化して融合を試みる。その両方の動機とジレンマを妥協させる方法が、対象の非人間化(dehumanize)である。
「少女愛」の破壊性と犯罪性は、その魅惑とともにナボコフによる『ロリータ』8)に詳細に記述されている。主人公はロリータを我が物にするために殺人を犯すが、最後には破綻に至る。それは純粋なフィクションとは言え、ロリータの男性関係や結婚を書くことによって主人公の思い込みの世界ばかりでなく、現実の時の経過を提示している。それに対してキャロルの描くアリスは、永遠に少女に留まる。それは或る種の無垢さの外見を与え、子供が持つ潜在的な可能性を描写しているようにさえ見える。実際、作者と作品を引き離す立場からはどのような読みも可能であり、pedophiliaとの関連も時に忘れられる。
幼女から成人女性への移行期にいる少女アリスは、境界の存在である。ヴィクトリア朝時代の少女にとって選択肢は、良い結婚をして母となるか、(ドジソンの姉妹のように)自宅に留まる未婚の老嬢となるかが主だったとすると、アリスは非合理の世界の旅人であり、世俗的な常識を揺るがされる経験をしながら、どちらの世界からも超越していく。彼女は女王の権威を物ともしない。小生意気で残酷なこの前思春期の娘は、既成の秩序の転覆可能性を秘めた越境侵犯者として、地の底や鏡の中へ、そして何処にでも入り込みその世界の法則を露呈させる/解体=構築する、ノンセンスのパワーの形象と見なされるようになった。キャロルの狭い意味でのノンセンスすなわち言葉遊び・パロディ・パラドックス・詭弁などは、アリス像抜きにはそれほどインパクトを持たなかったことだろう。
しかし実際に『アリス』二部作1)を読めば、その世界の別の特徴はすぐに明らかとなる。まず、アリスの世界は未来指向的なのではなく、単にまともな大人が不在なのである。それから、キャロルが主張しそう思いたいらしいほど無垢な世界でもない。赤ん坊は絶え間なく胡椒を掛けられ、あやすと称して宙に投げられ、アリスが抱えて歩くうちにブタに変わる。作品世界において肝心の登場するものたちは、生気を抜かれている。それらは巧妙な作り物であり、人との関わりは乏しい。登場するのは、変わった動物ばかりである。童話に主人公以外動物しか出てこないのは不思議ではないが、彼らは家族を形成しない。『鏡の国』でも、アリスは赤の女王の勧めに従ってポーンとなるが、同類に出会うことはない。対人関係は存在せず、反目と嘲笑がノンセンスの実質である。
実人生においても、彼は子供を分け隔てなく愛したのではなく、特定の年齢層の少女にのみ興味を抱き、少年は殆どの場合親や姉妹に近づくための餌として扱う、策略家だった。聖書よりもポピュラーといわれる『アリス』を書いた作者ドジソン=キャロルの少女たちへの暗い情念は、彼の撮った少女の裸体写真や少女たちとの交流の跡から、人の知るところとなりつつある。次に彼の生涯とアリスの関係を見てみよう。
II.チャールズ・ドジソンとアリス
チャールズ・ドジソンは、1832年1月27日にイギリスの寒村ダーズベリで生まれた。彼には二人の姉がおり、下には妹・妹・弟・弟・・と8人続いた。兄弟姉妹には似たような名前がつけられ、彼が後にペンネームとした「ルイス・キャロル」には、姉の名前Louise・Carolineが隠れている。近隣にいた彼の友人は一人だけで、彼には家族の世界が世界そのものだった。彼の姉妹の多くは家庭に留まった。両親は従兄妹同士で、彼の母親はあらゆる資料に「慎ましく心優しい人物だった」と記されている。牧師の家系に生まれた父親は、優れた牧師と認められていた。彼には威厳ばかりでなく、ユーモアのセンスもあった。
チャールズはこのように、非の打ち所がなく見える両親と家庭で育った。その一方で『アリス』では、赤ん坊が憎まれ残酷な女王が登場する。次々に続く妹弟の誕生は、彼が幼児・子供であることを許さなかったかもしれない。兄弟たちへの嫉妬と癇癪は、母親のキスと父親の正しいあり方にかき消された。母親が「非常に忙しい」にもかかわらず残酷どころか天使≠フようだったことは、「キスによる封じ込め」となって、彼に愛情の剥奪に声を上げる余地を与えなかったかもしれない6)。
1851年、彼はオックスフォードに入学するが、その数日後に母を亡くす。彼は数学で優秀な成績を収め、学部生時代から「特別研究生」の資格を得、24才で講師となり学者生活を始めた。特別研究生であるための条件は、独身生活を続けることと、聖職者の資格を取得することだった。彼は後者の要件を満たすことを10年間引き延ばしていたが、教区の仕事をしない執事職に就くことでそれを済ませた。その理由は、牧師に就くと観劇ができなくなるから、吃音のため説教ができないから、といった外的な理由から、魂を導く者としての自信がなかったから、という内的な理由まで推測されている。研究生資格の恩恵として、彼は1898年に66才で亡くなるまでの47年間を、オックスフォード大学の学寮で過ごした。彼の対人回避や気難しい性格は次第に顕著になり、夜には強迫的な疑いに囚われ不眠がちとなった。強迫傾向や感染恐怖も認められたが、ここでの主題は彼の少女愛である。
彼は24才のとき(1856年)、写真機を購入し撮影活動を開始している。当時4才になった実在のアリス・リデルに初めて会ったのもこの年である。そして1862年7月4日、「黄金の午後」を迎える。ドジソンはリデル三姉妹と同僚ダックワースとともにボート遊びに出掛け、アリスたちに向かってのちの『不思議の国のアリス』の原型を語ったのである。
実在した少女アリスは彼のミューズであり、彼にぜひ書いて欲しいと何度も懇願した彼女抜きに、この作品は成立し得なかっただろう。しかしそのことは、彼がアリスにしか興味がなかった、ということは意味しない。ガーンズハイムの『写真家ルイス・キャロル』5)を読めば、少女写真撮影家としての彼の収集が、対象も数も限定していないことが分かる。それは何らかのトラブルのため彼が写真を放棄することになったらしい1880年まで続く。その間に、彼の日記には数百人の子供の“友だち”がリストに追加されていく。彼は自信を持って日記に書いている、「ぼくは、その気になれば、毎日でも可愛い子どもたちと近づきになれるようだ」。彼は海辺で、旅客車の中で、親と一緒の子供たちに近づき、『アリス』が既に完成していた頃にはそれを贈る約束をし、次には彼女一人と会い、写真のモデルに誘い、あわよくばヌードで撮影した。
写真は最終的に、裸体少女写真撮影に熱が入りすぎて周囲と問題を起こしたらしい。モデルにじっとポーズを取らせる彼のコスチューム写真は、彼の少女愛の具体化だった。それは、彼がこうあって欲しいと思う形象・あり方に相手を当てはめていくことだった。登場人物としてのアリスは彼のdreamchildであり、彼が連発するのはpretty或いはlovelyである。彼には『アリス』の中に自分で書き込んだアリスの残酷さが、見えていないかのようである。それは、ハートの女王すなわち「盲目的で見境がなく、怒り狂う女」にも投影されている。彼は自分の慎重さと丁寧さに自信を持つあまり、相手への強要を通じて自分が発揮している残酷さについては無頓着だった。
アリス・リデルおよびリデル家とも、決裂の日が来た。彼は日記に何かを書き込んだが、それは後に姪の検閲によって切り取られてしまった。だから正確なことは不明だが、伝記作家のコーエン2)は、彼が偶然の機会にアリスとの将来の結婚をほのめかしたことによって、リデル夫人の拒絶を招いたのではないか、と推測している。以後、リデル家の彼への態度は素っ気ない。彼が続編『鏡の国のアリス』を書いたのには親しさを取り戻す目的もあったと窺われるが、それは叶わなかった。では彼が物語で定着したアリスとはどのような存在だろうか。それを「対象喪失に対する喪の作業の産物」と見なすのは、困難である。本の中のアリスは永遠に7才半であり、むしろ積極的にそこに留められているのである。
III.『アリス』物語と反-成長
グリネッカー6)は、ドジソン固有の生活史に対応した理解を提供しようとした。キングとクイーンを含めて13枚ずつというトランプの構造は、確かに両親プラス11人兄弟、という彼の家族構成と同じである。王と女王の関係は原光景を、女王が「首を切れ!」と脅しているのは去勢する母親を示し、赤ん坊の粗暴な扱いは、彼の本心を表しているかもしれない。その時空間は、変化というより移動≠フ世界である。『鏡の国』で支配しているのは、チェスの規則である。アリスが経験するのは、成長ではなく物理/身体レベルでのサイズの変化である。
キャロルの成長嫌いは、ハンプティ・ダンプティの忠告(「七歳でやめときな」)に明らかである。それでも、成長に関わるテーマはある。庭園が王と女王の場すなわち原光景であるならば、庭園に入ることは、カップルによる生殖/創造のエデン以来の秘密を知ることである。アリスが辿る冒険の地理は、身体器官に酷似している。彼はアリスに同一化し、その力を借りて母親を探り、女性の秘密を知ろうとしている。それは具体的には、母親の絶え間ない妊娠・目撃される体型変化の内側で進行している事柄である。しかし、アリスとして待望の庭に入っても、ハートの女王による去勢の脅しに怯んで冒険=貫通はそこで終わってしまう。交わりintercourseは生じず、どのような結合・結婚も起きない。そこにあるのは、困難や恐怖の克服でも分裂された女性像の統合による新たな創造でもない。アリスの姉は最後に、アリスが「一人前の女性」になることを想像しているが、それには「素朴で優しい心を持ち続ける」という意味しかない。アリスの気丈さ・好奇心・感じ易さ・生意気さ・・等の特質は、惨めさや愚かしさ・混乱を他の登場人物たちに押し付けることで成立している。『鏡の国』では、アリスはポーンからクイーンに変わり戴冠される。しかしそれも、何か課題の乗り越えや断念という苦痛を通じてではなく、ゲームの規定によってである。成長≠ヘルール化されている。
ドジソン=キャロルは、語りのパフォーマンスを通じて試みていることがある。それは一言で言えば、飼い馴らしgroomingである。語り手の最大の目的は、聞き手の少女の歓心を買うことにある。彼のお話は、聞き手の気持ちをつなぎ止める巧みさがある。自分に年格好の近い少女の冒険に、興味を抱かない少女はいるだろうか。しかしそれは、7才半の「アリス」の愚行を笑うように10才の聞き手アリスに仕向けつつ、同じように大人を真似て出過ぎたことをした場合に嘲笑される可能性(Alice/Malice)を示唆して、アリスを管理下に置こうとする過程である。
しかし庭=原光景から退散した彼には、去勢の恐怖の痕跡を消すことしかできなかった。アリスの見たのは夢だったし、アリスの姉はそれを無害なものにダイジェストして見せ、遥か以前に過ぎたことになることとして、未来の視点からそれを振りかえる。「アリス」は永遠の七才半の少女として保存される。彼女はドジソン・読者を置き去りにし、無垢の世界の届かない存在となる。現実の女性もまた「アリス」から去って行く存在であり、男性であれ女性であれ子供時代が終われば、「アリス」ではなく現実の女性と同行するところである。だがドジソンには、「黄金の午後」の次はなかった。
おわりに
『アリス』による現実的な成功はもう一つの皮肉な結果をもたらした。『アリス』本自体が格好の囮baitとなったのである。皮革装丁の著者署名入りを母親に献本するのが、少女たちを大人抜きで招くために有効な方法だった。そうすることでドジソンは母親たちに、自分を少女の夢の世界の理解者≠ニして提示しつつ、現実と彼の世界の境界を曖昧にしようとした。もちろん、それに乗らずに、まだ少女の娘のところに来た彼の手紙を胡散臭く思い、交際≠許さなかった母親もいた。こういう場合、彼は次の対象に声を掛けるしかなかった。実際、写真も止めてしまった彼は、それを超えるgrooming法をもう見出せなかったのである。しかし「アリス」が今も、少女の世界を夢見る者たちを惹きつけていることは確かである。
文献
1)Carroll,L.: Introduction and Notes by Martin Gardner.The Annotated Alice. Alice's Adventures in Wonderland and Through the Looking-Glass.Penguin Books,1970. 石川澄子『不思議の国のアリス』、高山宏『鏡の国のアリス』東京図書、1980。
2)Cohen,M.N.: Lewis Carroll, a biography. ,1995.高橋康也監訳『ルイス・キャロル伝上・下』河出書房新社、1999.
3)Freud,S.: Three essays on the theory of sexuality.Standard Edition VI.1905.
4)福本修:アリスの仕掛けと限界――境界侵犯と反-成長の世界――.日本病跡学雑誌第58号、31-40,1999.
5)Gernsheim,H.: Lewis Carroll--Photographer,Parrish,1949.人見・金澤訳『写真家ルイス・キャロル』青弓社,1998.
6)Greenacre,P.: Swift and Carroll: A psychoanalytic study of two lives.IUP,1955.
7)Meltzer,D.: Sexual States of Mind.Clunie Press,Perthshire,Scotland,1972.
8)Nabokov,V.: Lolita.1955. 大久保康雄訳『ロリータ』河出書房新社,1977.
9)Stoller,R.: Perversion.The Erotic Form of Hatred.Brunner-Mazel,New York,1986.
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