書評:斉藤環 著『文学の徴候』(『日本病跡学雑誌』)
福本 修
本書は、「社会的引きこもり」やアニメ・若者論などのサブカルチャーについて多くの著作を出してきた斉藤氏が、日本現代小説を俎上にして論じたものである。今まで氏を「引きこもり」専門家としてしか認識していなかった者には極めて新鮮かつ情報豊かで、われわれを氏の「愛好する作家」が並ぶ書棚へと招き入れて、「病跡学とメディア論の中間に属する」作業を見せている。実際、私は取り上げられた作者のうち、佐藤友哉・滝本竜彦はその名前さえ知らなかったし、その他多くの小説家の最近作をこの機会に初めて読んだ。私もあちこちのブックオフで調達に励んだが、それでもあまりの多さに、氏の批評対象の半分くらいしか読まずに論じることになるのを御寛恕いただきたい。
氏は毎章ほぼ一人小説家を取り上げて、何らかの理論装置を援用しつつ作品分析を行なう。全二十章を通じて、精神医学的症候学とラカン精神病理学を中心とするがクレッチマーの説明や安永の気質論・中井の統合失調症論も折り込む道具立てには、80年代に精神科医になった者に馴染み深いという“懐かしさ”を別にすれば、統一性は認め難い。また、本書も含めて日本で紹介されているラカンを臨床的な意味つまり普通の意味で精神分析と呼ぶのは、無理なことである。だが、こういう形でラカンや精神医学を用いることによって見えてくるものがあることも、本書を通読すると分かる。
氏は分析の際、インタビュー・対談などでの作品の自己解説を手掛かりとしても、小説家の家族歴・生活歴はまず参照しない。だから分析の対象はあくまで作品なのだが、にもかかわらず作者も論じられている。古典的な病跡学は、作品の中に病気の跡や証拠を見出そうとする上に、作品外の情報を用いて作家を精神医学的に診断しようとする。結果的に作品理解が貧困化しがちなばかりでなく、病気に結びつけ過ぎてその信憑性も薄れさせる危険がある。精神分析で作品が引用される場合は逆に、外的現実との対応関係は括弧に入れて内的世界の一局面として理解し、それが実在の作者のものか登場人物というフィクションに属するのかを問わない。そうすると、深層であれ表層であれ心理の理解には寄与するが、象徴や内容の解釈に傾きがちで、それが本当に作品や創造性の本質に関わるのかどうかは不明である(シーガルを思い浮かべればよいだろう)。また、臨床での検証手続きを離れたところでの一方的な分析記述なので、作者という当の人との結びつきも、未確定のままである。斉藤氏の分析は、こうした困難と無縁ではないが、ともかくも作品と作者を媒介させて両者を同時に論じる、新しい――そして個性的な――切り口を提供している。
それは、作品を作者「システム」の産物と見なす、というものである。産物よりは「症状sympto^me」(ラカン)の方がより適切な言葉だろうが、既に触れたように氏の分析ではラカンも精神医学も等価のツールなので、やや曖昧なこの一般用語で呼んでおく。この「システム」が氏の提唱する「病因論的ドライブ」と関連しそうなことは、容易に予想がつくだろう。氏にとって作品論とは、「批評と言うよりも病態生理の解明」である。しかし、その本体は何なのか、そう簡単には分からない。むしろ本書全体を通して、各種の作品に立ち寄りつつ窺い、その歩みの彼方に浮かび上がるかもしれない消失点として想定されているようである。さらにこの説明には、謎の言葉が付け加えられている:「作品論は・・・さらに言えば、作家ないし作品に向けて生じた転移の解釈となるだろう」。以下では、これらの点を論じるとしよう。
まずは具体的な作品分析から見たい。紙幅に限りがあるので、記述を順々に確認することはせず、着想の中心と思われるものに直ちに触れることにする。それは、第十四章「増殖する欠損」の小川洋子論である(保坂保志の小説を「猫システム」と論じた第九章は、その準備となっている)。氏の理解によれば、小川洋子が描く世界の特徴は、封印された場でのおぞましきものの増殖にある。氏はそれを更にラカン=ジジェクの「サントームsinthome」論に結びつけて、享楽そのものの具現化、不気味なものの出現、と論じていく。「サントーム」に関しては、ラカンそのものかその解説に当たっていただくしかないが、サントームsinthomeが症状sympto^meの古い綴字法であることから示唆されるように、生み出されるものであると同時に現実の核のようなものである。氏は体験談として、一ヶ月放置した炊飯器の中に見出された、液状化した米のなれの果てを挙げている。さて、ここでのミソは、それを書くのが小川洋子という人ではなくて、「小川システム」であるとするところにある。小説の世界を構成するのは自己生成していくシステムなのであり、人としての感情や考え、その総体をなす経験なのではない。小説世界の違いは、それぞれのシステムの差異に由来する。この手続きのおかげで、作者の人生と生活といったものの寄与は最小限に済ませ、かつ作者のシステムを論じることができるのである。それがどう作動するかの説明に関して、氏は東浩紀(ドゥルーズ=ガタリ)の「動物化」概念を借りてきているが、用意があれば当然ながら例のドライブを論じたいところだろう。しかし病因論的ドライブについての記述がほぼピークに達する「内因性の文学」と題した第十六章の古井由吉論でも、著者の「壮大かつ独創的な構想」は予告に留まっているので、全体像の把握は、今は措いておくしかない。一言私見を加えておくと、第十五章でちらりと触れられるアルトーの言葉、「私は私であり私の妻であると同時に私の母である」には、その雛型となる可能性がある。これはアルトーのように統合失調症にはならない普通の人がおよそ書けることではないし、一度書かれたものを見ると、主体のあり方の何かしらを表しているように見えつつ、単純な解釈を許さず存在している。本書を未読の読者のために述べておけば、氏の立論は、古井由吉が統合失調症を発症しかけている女性を書いているから内因的、といった素朴なものでは全然なくて、古井システムが主体の二重性を体現していることを指摘するものである。「匿名主体」(「固有主体」に対する)という「内因の領域」を創造性の領域とする氏の構想には、はなはだ興味深いものがある。私見をもう一つ付け加えると、このドライブは体質に近く、結局のところメディアとは関係がないのではないか。
「まずは具体的な作品分析から」と言っておきながら、本書の核心の一つに既に触れてしまった。次に、氏の具体的な分析の特徴と問題を見よう。小川システムに戻ると、確かに小川洋子の作品には、逆流する汚物に始まって、現実の持つ異形の相貌を顕わにせしめる展開が多い。それについて、小川洋子が何をどう経験したからこう書いたといった素朴な対応を希求しても“人間中心主義”的過ぎて、システムが生み出しているとするポストモダンなパラダイムが捉えるものを、まったく見損なう。それがいかに人の心を捨象した有機物化のようであっても、ラカン的意味での「現実le re´el」を見据えている。氏にとってもそれは、直ちに自分の経験を披瀝できるように、また「小川の同世代人」であることを理由に「断言」できるように、きわめて親和性の高い世界と思われる。
だがこの「断言」の手続きには、原理的な問題がある。何かと言うと、どういう「システム」が存在しているかの指摘が、結局は読みとその説明の説得力に依存している、という点である。たとえ極めてピッタリとくる解釈が見出されたとしても、テクストはそれに尽きることがないというのが、ポストモダンのもう一つの教えである。テクストの余白に何が書かれていたか、書かれる可能性があるかは決定不能であり、その横にどんな別のテクストがあるかは、ニーチェの傘のように偶然の出会いである。しかもこれは、たとえ完璧な解釈があったとしても、の話で、読み落とし・読み違いがあったり全然別の読みがあったりすれば、或る「システム」の主張は、読み手の投影と区別し難くなる。それが意識的なときには思い入れと呼ばれ、無意識的ならば「転移」に喩えられるだろう。
ここでの氏の「断言」は、小川には「喪失感以外の感覚がない」というものである。小説で確認しよう。『博士の愛した数式』の80分で記憶を喪失する博士は、「数学のみに没頭し、しばしば不潔」で、確かに「同世代の男性ならば誰もがロマンティックな同一化をなし得る」ような存在ではない。メモが至るところに貼り付けられた彼の身体は、「サントーム的異様さ」を醸し出している。増殖するメモは、喪失する記憶への対抗策とはならずむしろ欠損の表現として、物語の頓挫を体現し続ける。氏は言う。数学は欠損を最も完璧に操作しうる体系であり、「いまはなきなにものかを宛先とした挽歌にほかならない」。――しかし喪失されたものが「なにもの」なのか正体不明のままで、通俗的な解釈の余地さえなかったならば、この小説は多くの読者を獲得しなかっただろう(映画にもなるそうだ)。この小説のおそらく最も情に訴える部分は、「博士」が9人目のお手伝いさんの息子「ルート」に対して向ける、不器用な愛情である。それは“父の名”に値しない、父の補填か徴候だが、明らかに愛情深い。数式には、諍いを仲裁する機能さえ認められる。実際、母子が老年男性のところを定期的に訪れる話から、父親のことを考えないでいることの方が困難である。それが中心だとは言わないけれども、この種の情動の読みは、本書で系統的にオミットされている印象がある(『熊の場所』も、父親の教え抜きに成立しない話である)。
もちろん、本書の価値は読む作業による発見的な意味の方にある。例えば赤坂真理・阿部和重から氏は、解離について精神医学が教えないことを学んでいる。前者は『ヴァイブレータ』を読む限りでは、感覚への還元によって意味を考えることを回避しているように私には見えたが、それは人それぞれなのだろう。ただ、気になるのは診断学である。面白いものを選び出す氏の眼識は特筆もので、本書のおかげで滝本竜彦のヤケクソぶりや舞城王太郎の芸達者ぶりに触れる機会を得たことに感謝したいが、後者を「人格障害」の世界と結びつけるのはどうだろう。『阿修羅ガール』は、リスカもODも登場しない、健全で健康的な世界である。
見解の相違を述べることが目的ではないので、もう一例だけ挙げさせていただきたい。氏は直観的に、大江健三郎の作家としての強さが「得体の知れない論理を、平然と提出しうる強さにこそある」と言う。続いてそれを説明して、「そう、大江光の『すべて駄目でした』という言葉のように」と書く。しかし、結論ではアッサリと「病跡学的に考えるなら、大江健三郎は、まぎれもなく神経症圏内の作家である」と診断される。なぜだろうか?氏は今、この作家が知的障害者と同じ言い方をすると言ったばかりではないか。氏の評価は、息子があられもないことを一言で言ってしまうのに対して、父親は「無根拠に基づいた」反復を突きつけている、というものである。それはイコール神経症、だろうか?ここで思い起こされるのは、強迫性障害と発達障害が時に区別困難なことで、氏が捉えている「得体の知れない論理を平然と」とは後者の、「私的言語」的言語とでも言いたくなる特徴ではないのだろうか。
最後に、転移に関する氏の謎の言葉に戻ろう。今まで、ここでの作業は作品のシステムを理解しようとしている、とわれわれは想定してきたはずだ。しかし転移と言うと、それから分かるのは転移する側の特徴である・・・対象の性質は認知の取捨選択によって歪曲され、投影のために一本調子の色付けをされる。治療者が逆転移から対象関係を知ろうとすることは常套的だが、それは精神医学にもラカンにも縁遠い手法である。
これまで読み流したふりをしてきたが、実は最初から気になっていた一節がある。「そもそも、本稿の基本的な趣旨は、第一章でも述べたように、私自身が愛好する作家ないし作品に思うさま転移し、その転移の解釈を通じて自己分析に至ろうという虫の良いものだった」(p.39)。では、これまで見てきたのは誰の徴候だったのか?そして誰のシステムだったのか?思っても思わなくても、転移は起こる。おそらく著者は本書によって、作者たちと通底するシステムを作り上げたのだろう。互換性のない部分はどこに行ったのか分からないが。そのような融和状態に至れば、誰彼の区別は意味をなさなくなる。本書は、その意味で極めて個性的である。
株式会社文藝春秋刊,A5版,358頁,2004年,本体2000円+税
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