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精神医学に哲学は必要か (イマーゴ91-8)
−−『哲学と精神病理学』−−
福本 修
精神科領域のうちで、自然科学的基盤が直ちには見出されない現象にはどのようなアプローチがありうるだろうか。何がその方法論を提供するだろうか。検証が困難なとき、期待や臆見・無意識的願望から政治的経済的バイアスまで、さまざまなものが影響しうる。その解決は結局のところ、科学的手続きによってなされる。単純な例を挙げれば、薬効の判定には統計学的な検定を経る以外の方法はなく、プラセーボ(偽薬)効果の意味もそれによって正しく位置づけられる。
ドイツと日本では精神病理学的研究がそれなりに尊重されているのに対して、アメリカで受け入れられる論文の主題は統計的研究か薬理か治療法かであり、純粋な精神病理学は哲学的に過ぎるという理由から退けられる。Janzarik,W.は「精神病理学の危機」(1976)を著したが、DSM-IIIの流布と修正・それに沿った国際疾患分類の改訂(ICD-10)は、操作的診断基準の使用を日常化し、精神病理学の立場を更に危ういものにしている。実証性の提示が必須となった科学としての精神医学に対して、精神病理学はどのような貢献をすることができるだろうか。
『哲学と精神病理学』(M.Spitzer&B.A.Maher(eds.):Philosophy and Psychopathology.Springer,1990)は、1989年10月にハーヴァード大で「精神病理学における哲学的問題」と題して開かれた会合の演題を収録したものである。これに先立ち1988年7月フライブルク大で行われたものは、『精神病理学と哲学』(M.Spitzer,F.A.Uehlein,G.Oepen(eds.):Psychopatology and Philosophy.Springer,1988)にまとめられた。本書ではGlatzel,Blankenburgらが抜け、アメリカの哲学者心理学者らが参加している。
編者はその意図について、精神病理学が哲学と共有する(1)「その主張の科学的地位に関する問題」(2)「倫理的な問題」(3)「精神障害を如何に説明するべきかという問題」のうち、特に(3)を中心に扱おうとしたと説明している。つまり、症状や障害を描写する諸概念は理論的に無垢な記述ではなく、既にそこに仮定や公理を含んだものなので、その理論負荷性を問題にしようということである。
Spitzerは、DSM-III-Rにおける諸概念(妄想、幻覚、思考障害..)の定義への疑義を列挙している("Why Philosophy?")。それらは現象に純粋な記述を与えようとしたJaspersの考察に遡られる。それを検討すると、純粋な記述どころか、20世紀初頭の心理学や論拠を示さない定義で済ませていることが分かる。
しかしながら、Jaspersを批判しても現実の事象についての知識は増えない。DSM-III-Rを代表とする疾病分類の改良には役立つが。もしも精神病理学の要求が術語の変更を越えるものでないならば、統計処理を念頭に置いた操作的概念の使用という大枠には従うことを意味する。術語や概念の意味内容の吟味は、「自己」とは何か「意識」とは何か式の哲学的総論の復権ではなく、むしろ「操作的」手続きの必要性を確認することになろう。
モデルとして採用する方法は、哲学をより直接的に精神病理学に生かす手段のようだが、そうとも言えない。Wiggins・Schwartz・Northoffは、Husserl現象学の概念を用いて、分裂病の症状をそれらの障害として理解しようとする。これは描写として不適切でなくても、関与のための現実的な接点を欠いている。「構成する主体」「根源的臆見」「総合」などは哲学の文脈で構成された概念であり、経験の水準で確認できるものではない。その障害を主張することが医学的に意味があるためには、統計で言う外的指標がなければならない。Mundtは、「脆弱性モデル」「素質-ストレスモデル」を批判して、「志向性」概念の使用を提唱する。彼は操作的な接続性をよく心得ていて、より経験的行動的な表出を採用する。しかしそうすると、「志向性」は超越論的能作ではなく心理学概念となり、哲学としてのHusserlは余分に思われる。
Spitzerは、Kantによる精神障害の疾病分類を再発見しJaspersの源流を見出すとともに、彼の理論枠によって分裂病の諸症状を「経験する私の障害」(自我障害)という観点から理解しようとする。諸症状の関連性の指摘は、現実に妥当する限り有益である。Hundertは、精神病の障害を、経験形式即ちカテゴリーの障害に結びつけようとする。P.Kleinは、Kantのカテゴリーを心の機能が理想化されたものと見なし、その発達や病理を扱おうとする。それらの着想はともかく、Kantを参照する意味が失われていないかが問題である。
Maherは、人間の行動が合理的か非合理的かという判断は、形式論理学や推計論によってではなく、行動経済の観点から為されなければならないと主張する。D{ringは、「心の解釈的見解」(Quine等)を採用しても、一般的に不合理な信念の存在余地があることを指摘する。両者は、正常な思考のモデル作成でさえ容易でないことを示している。Emrichは、情報処理のモデルから「意味」を認知科学的に捉えようと試みている。Matthysseは、神経回路の機構の法則と言語の形式的法則を媒介するモデルを考察している。AI研究の発展によって仮に言語もまた大脳過程と結びつけられたならば、「精神」医学には何が残るだろうか。
Castanedaは、言語分析を通して「自己」意識、「私」の構造について展開している。病理にまで到達しないが、議論そのものは興味深い。Marguliesは、治療経験に沿って「自己」の自己回帰的性格を論じている。praecox Gef{hlを自己のそれ自身への共感の問題に結びつけるのには疑問を感じるが、症例において現実に何かが起きたのならば価値がある。Rychlakは、Freudの著作を例に、精神病理学的な説明における目的論性を論じている。このように理論記述の性格総体を検討することも一度は必要だろう。Hoffは、事象の理解に経験論的・目的論的水準に加えて「自由理性」の次元を区別し、Kant・Fichteのような超越論哲学に依拠しようとする。H.Eyの「自由性の病理」が再び取り上げられるのは示唆的である。
以上、走り書き程度に各論文について触れてきた。精神病理学の展望及び哲学との関わりは見えてきただろうか。パラダイム批判は、それ自体が現実についての知識を与えるものではないので、対案がないと発展性に乏しい。モデルの提供も客観性の検定も、哲学に依拠する精神病理学には得意でないように思われる。症状や現象の記載把握は重要だが、そこに格別に精神病理学的と呼ぶべき方法論や手続きがあるわけではない。
となると、選択は限定されてくる。第一に、情報性の濃い各論に徹するか。事例報告は個別性がある限りで検討の価値を持つ。哲学では、グロスな総括でなくやり取りの場面まで降りることができる分析哲学の言語分析には、多少の魅力がある。しかし哲学よりは、他の諸科学や「野生の思考」とのcross-overの方が有望に見える。
第二は、倫理的な総論である。主体・自由という観点は、生物学的精神医学には欠けた次元である。逆にこの観点を欠いた精神療法はありえないだろう。この両者の間に位置する実証されない精神病理の理論の有用性は、精神科医側の安定というプラセーボ効果だろうか。
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