論考: |
外傷を巡る言葉:「その戦いからの放免は存在しない」
――ビオンの人生とその精神分析理論――― |
福本修 |
1.はじめに
本来抽象的・普遍的であるはずの理論にとって、その発見者であり表現者である個人の経験は、通常は補助線であり離陸のための助走路以上の関係にはない。しかし言葉による記述が中心である精神科学の場合には事情が変わって、科学としての普遍性を謳っても、表現する個人の経験による特殊性と個別性の痕跡は残る。それは単に、言葉が記号に較べて多義的で記述力に劣るためだろうか。それとも、人が<心>の関わる経験に接近しようとする方法の構造自体に、特殊性があるのだろうか。無意識はその性質上、経験の全体には到達し得ない。だがそれ故に、言葉では汲み尽くせない源泉となりうる。意識が言語的意識である限りで、無意識の探究はこの基本的な規定を免れられない。そこでは理論は、経験を切り出す一手段でありつねに助走路の一つである。
上記をクライン派の精神分析者ビオン(Wilfred Ruprecht Bion)に倣って表現すれば、→O 6)である。そして理論はO→Kへの展開の一つということである。ではこのような問題設定において、彼は精神分析理論の進展と深化をどのように理解しただろうか。また、彼自身の寄与はどのようなものであり、それは彼の個人的経験とどう関わるのだろうか。逆に、言葉にならざる経験を表現しようとする精神分析は、彼にとってどのような意味があっただろうか。以下では、彼の生涯と著作の一部を振り返って、こうした点について検討することにしたい。その際に焦点となるのは、彼が経験した<戦い>である。その“戦線”は、幼少時の家庭生活に始まって、全寮制体験・第1次世界大戦参戦とその後遺症との戦いと続き、実生活から著述場面・臨床場面へと展開した。それは最終的に、ひとたび招集されたならば放免のない、生の意味を巡る戦いだったと言えるかもしれない。
2. W.R.ビオン(1897−1979)の主業績と略歴
彼が発表した初期すなわち1940年代の代表的な仕事は、小集団力動の理解である。既に精神科医となり、精神分析の訓練も続けていた彼は第二次世界大戦で軍医として召集され、兵士の適性検査や選別・戦争神経症の治療に当たった。彼が集団力動を考察したのは、Northfield病院での経験(1940)に基づいている。それは40年代に雑誌に連載され、最終的に彼がクライン派としての訓練を終えてから、“Experiences in Groups”3)という著作にまとめられた。彼の独創性は、フロイトが催眠と指導者への同一化を糸口として集団を神経症の構造モデルで捉えたのに対して、より原始的な不安と防衛に焦点を当てたところにある。彼は集団の構成要素に、現実の課題を直視して取り組もうとする作業集団work groupと、現実から目を背けて無意識的で内的な不安を防衛する基底的想定集団basic assumption groupを認めた。「基底的想定」は集団において、個人のパーソナリティにおける無意識的空想に相当する役割を果たすが、ビオンはそれを依存・闘争-逃避・ペア化の三種に還元し、更にはそれらを統合した原-心的システムproto-mental systemを心のモデルとして構想した。彼はその後集団精神療法を実践しなかったが、タヴィストック・クリニックでの集団療法に、そして集団力動の研修に、大きな理論的影響を残した。また60年代終わりに改めて集団力動を考察したときには、組織の体制と革新について容器と内容の相克という観点から論じた6)。
彼の1950年代の仕事は、精神病の精神分析的研究として一括できる。リックマンとの訓練分析は戦争で中断となり、彼は第二次世界戦後メラニー・クラインと分析を始めた。彼が精神分析者の資格を得たのは、50歳の時である。既にシーガル・ローゼンフェルドらがクラインの関心に応えて統合失調症を含む精神病状態の精神分析に取り組んでいた。ビオンはそれに遅れて加わったが、彼らにはなかった構造的視点を提供した。その一つは、パーソナリティの機能に「精神病的部分」と「非精神病的部分」とを認めたことである1)。彼は現象の記述から始めて、その原始的な様態をクラインのポジションと投影同一化を中心とした防衛機制を用いて整理した。そこで彼は、@破壊衝動の優位、A外的・内的現実の憎悪、B切迫した絶滅恐怖、C対象関係の早急で未熟な形成、といった特徴を把握し、精神病的な世界を、夢の中でも覚醒中でもない世界で、いわば「夢の素材に取り囲まれた世界」であると理解した。彼は、パーソナリティの精神病的部分が内的・外的現実を知ることを憎悪しており、それが知るための装置の破壊へ通じているのを見出した。患者が経験する迫害的対象は、破壊され排出された心的装置の断片が対象に投影同一化し、攻撃性を投影されて迫害的になったもので、彼はそれを「奇怪な対象」と名づけた。
彼はこうした攻撃を一般化して「結合への攻撃」2)と呼び、そこに精神病性障害と対象とのコミュニケーションの問題との関連を見た。このことは、正常な投影同一化に基づく早期母子交流という理解、そしてそれをモデルとした治療関係へと発展した。また、統合失調症性の言語および思考に特に注目したことによって彼は、クライン・シーガルが既に論じていた心の象徴形成機能を超えて、心的装置の中の思考機能とその病理を考察することができた。その際の原理は、極限まで単純化されてフロイトの快感原則と現実原則に基礎づけられたが、さまざまな臨床観察と併せて無意識の構造と機能についての理解を刷新した。認識が最も改まったのは、無意識が機能としては原始的であっても、構造としては高度な達成であるという点である。フロイトは夢に抑圧された幼児願望の充足を見て、そこに置き換え・表象可能性・二次加工・劇化などの機制が介在しているのを認めた。だからフロイトの時点でも夢は既に高度な産物だったが、その点は必ずしも明確にされていなかった。彼がそれを俎上に上げ始めたのは、第一次世界大戦を経て、「願望充足の真の例外」である外傷神経症の夢に直面したときだったと思われる。
クラインの没後1960年代に彼は、精神病者の精神分析に並行して考察を重ねていた、独自のメタ心理学の試みを単著として発表し始めた。最初彼は『経験から学ぶこと』4)で、フロイトの最初のメタ心理学(『科学的心理学草稿』13))を思い起こさせる、自然科学的な「科学的演繹体系」を模範とするかのような生成論的−演繹的形式を採用した。その際の考案物であるグリッドという表は、精神分析の対象を記号化しようとする彼の意欲を表している4) 5)。主概念である「ベータ要素」「アルファ要素」「アルファ機能」は、それぞれ「アルファ機能によって変形されていない感覚印象あるいは物自体・情動」、「ベータ要素が心的に経験可能となり、夢や無意識的思考の材料であるもの」、「両者を媒介し、ベータ要素をアルファ要素とする機能」を意味する。これらは、理論的用語として文字通りの意味を追う限りでは循環的にしか定義を与えられないが、その射程の有効性は、乳幼児が如何にして象徴を形成し使用する世界へと入るのか、そこに母親のどのような機能がどのように関与するのかを、物語のように描写するところにある。その結果、乳幼児の言葉にできない(nameless)混沌とした情動を受け止め、耐えられる形にして返すという母親の基本的な機能に、大きな意味が与えられて「夢想reverie」4)と名づけられた。早期関係の障害は、理論的水準ではアルファ機能形成の失敗として定式化され、母子の無意識的交流の水準では正常な投影同一化が許容されないことと理解された。これは、パーソナリティの精神病的部分の形成過程やアルファ機能の逆転のためとされる奇怪な対象の生成のように、実証し難いものも含んではいるが、正常な母子関係が持つ発達促進的な局面を抽出したことによって、治療における介入を実際に可能で現実的な基盤を持つものにした。この過程は、包容すること(containing)と呼ばれる。それは単に受動的に受け取ることではなく、情動的に関与して持ちこたえ、意味が形を成すところまで関わることである。そして、当初統合失調症患者との分析から示唆されていたこのことは、今では精神分析的治療一般の治療機序として考えられるようになり、盛んに言われるようになった。他方、彼は意味を破壊する力(−K、マイナスK)の存在も忘れていない。
ベータ要素すなわち感覚印象(sensation)・身体感覚・原始的情動などと、アルファ要素すなわち意味(sense)・表象可能性を持つもの・情緒などの境界への注目は、何を精神分析の本質とするかにも大きな変更を加えた。当初K(knowingから)結合の意義を強調した彼の関心は、情緒的な意味内容を中心としているにせよ、知ること・知っていく過程にあるかに見えた。しかしほどなく彼は「何かを知ること」と「何かについて知ること」区別し、後者を知識の防衛的な使用として、本当に経験することへの妨げと見なした。1960年代後半には、彼はK→OとO→Kという表現で二者を対比させて、精神分析行為を神秘主義と列挙しうる前者の道の一つとした。
1970年代には科学主義的な色彩は消え失せ、まとまった著述は晩年に発表された自伝的著作のみとなった。代わりに、ロンドンでの仕事を引退して移住したカリフォルニアを起点として、南米・ヨーロッパ各地でセミナー・ワークショップと即興の講演を行なった。そこではOへのアクセスとして、多くの神話・叙事詩・箴言が援用されている。これは彼の到達した方法論でもある。
以上祖述したことは、彼が二つの自伝8) 9)の中で詳しく述べたことに基づいて、彼の生涯における出来事および経験と関連づけられることが多い。自伝では、彼が理論的・実践的に活躍するまでの前史として、イギリス人両親の元に植民地インドで生まれ育ち、8才で渡英して寮生活を始めたこと、第一次世界大戦に志願し戦車隊を率いた経験と戦後の虚脱状態、親密な関係を持てないことから精神療法を受けたこと、最初の結婚と妻の出産後の死、メラニー・クラインとの8年間の分析経験などが語られている。注意すべきなのは、こうした経験と彼の理論を漠然とした印象から結び付けることである。例えばインド生育の影響は、何処かにあるだろうし、なければないで理想化された形で存在するかもしれない。しかしそれを、高度な理論的産物であるOと直結させることには無理がある。読み物としてはキプリングの影響の方が、現に彼が何度も引用しているので明確である。幼少時の体験としては、両親や妹・乳母との関係が重要であろう。彼は空想的でもあり実在感が強烈でもある、全能の神Arf-Arferという恐怖と戦慄の対象を語っているが、そこで顔を覗かせているのもユダヤ=キリスト教文化(Our Father)である。
彼が自伝の中で最も多くを割いているのは、第一次世界大戦の経験であり、これにまず注意を傾けるべきであろう。それは本当に大きく長期にわたる影響を彼に与えた。彼の理論は、その外傷への応答の試みと見ることができるほどである。
3.第一次世界大戦とその余波
第一次世界大戦は、戦場となったヨーロッパ各地に住み総動員された人々の生活を疲弊させたばかりでなく、その後の世界を大きく変えた出来事だった。1914年にオーストリア=ハンガリー帝国のフェルディナンド大公の暗殺によって始まった「8月の砲声」は、その年のクリスマスまでに止むと予想されたが、戦線は東部・西部両方で膠着し、大変な数の犠牲者を出した。推計によると6500万人以上の兵士が動員され、戦死855万人、つまり毎日平均5千人、戦傷は計1880万人、捕虜・行方不明775万人、民間人死者1850万人に上ぼった。それまで銃剣突撃が主流だった歩兵戦は、機関銃の導入によって単に死人の山を作るだけの戦術となった。砲撃による攻撃がそれに取って代わったが、両陣営は塹壕に立てこもって対抗した。時折行なわれた総攻撃は、戦略的な判断ミスと補給の失敗によって、大量の死傷者を出していずれの決定打にもならなかった。毒ガス・空爆・戦車といった新兵器が、実戦で初めて用いられた。
イギリスでは、1914年7月から2ヶ月間で30万人の若者が、年末までに100万人が入隊した。当時の陸相キッチナーは、掲示板から「国王と祖国が諸君を必要としている」と呼び掛けた8)。そして若い知識人の大半を失い、大英帝国衰亡の元となったと言われる。開戦当初にあった国民の好戦的で愛国的な雰囲気は、末期には厭戦的・反戦的気分へと変わった。動員された総数800万人のうち、200万人が負傷した。1928年になっても、6万人以上の戦争神経症者が48の特別精神病院で治療を受けていた。しかしイギリスにも“大本営発表”はあって、国民は前線の真実を知らされないばかりか、秘密兵器への過大な期待を抱き続けた。それは、形態から水槽tankと同じ名前が付けられた戦車tankで、ヨーロッパ戦線を突き進むはずのものだったが、実際には立ち往生を繰り返した。
オックスフォードに入学できなかったビオンは兵役を志願し、当初それも叶わず、父親の縁故で入隊した。そこまでしてなぜ彼は、戦車隊に入りたかったのだろうか。自伝の乾いた文体が伝える理由はただ一つ、それが「戦車を取り巻く秘密を見抜く唯一の方法だった」とあるのみである。渡英以来、いや自伝によればもっと前から汚辱を味わってきた彼は、甲殻のような鎧を得て、戦争の英雄として認められることを欲していたのだろうか?ともかく彼は入隊し、考えの浅さにそれをひどく後悔した12)が、もはや戻る道はなかった。その意味で戦車を、思考を欠いたmindlessマイナス容器と評する論者もいる15)。筆者は別稿(「心的外傷の行方」14))でこの時期のビオンを既に論じたことがあるので、以下はその再説を含むことをお断わりしておく。
ビオンはフランスの戦線に配属され、行動上は勲章に値する活躍をした。その内実が知られるようになったのは、50数年後に、ベケットの劇のような三部作を発表したときである。そこで彼は言う。「私はアミアンの戦闘で生き残ったが、それから元に戻ることはなかった」(『未来の回想』7))。アミアンは、アメリカの応援を得た英仏連合軍が最終攻勢を掛けた地点の一つである。ドイツ軍は講和を有利に運ぶ以外、最終的な勝利の見通しはなかったものの、戦力は残していた。1918年8月8日からの戦闘で、ドイツ軍は7万5千人(うち捕虜が3万人)、英仏軍が4万6千の被害者を出した。全体で400台以上の改良戦車が駆り出され、ビオンの周辺では36台中4台残ったと言う。
当時の彼の経験が今知られているのは、実は彼が復員後すぐ21歳の時に、戦闘日誌の形で書き記していたからである。更には、彼は61歳(1958)になって同じ経験を、アミアン再訪を契機に改めて三人称の文体で書き直そうとした11)。これらは未定稿に終わり、第二の伴侶フランチェスカが編集して公表した1997年まで、その存在を知られていなかった。裏を返せば、ドイツ軍人も登場すれば戦争を巡る箴言も語られる三部作(1975〜1977)でビオンは初めて自己韜晦しつつも戦争経験に触れ始め、その数年後に自伝の試み8)の中でそれを詳しく描写した、と思われてきたのが、そうではなくて、彼は経験後ほどなく書き付け、何度か反芻しようとしつつ頓挫しかつ頓挫させ、上に挙げた理論的考察へと傾注していったのだったということである。その記述の一端を抜粋する。
1.21才時のもの11):
「(・・・)次の瞬間、私とスウィーティングという名の機関手が一ヶ所で一緒に蹲ったとき、われわれの上で砲弾が爆発したようで、私はスウィーティングの方から呻き声を聞いた。彼の軍服の左脇腹は血で覆われているようで、よく見ると、彼の左側全体が千切り取られていて、胴体の内部が剥き出しになっていることが分かった。しかし彼は死んでいなかった。
彼はとても若い少年で、何が起きたのか十分に気づいていないで怯えていた。彼は何が起きたのか見ようとしたが、私は彼にそうさせなかった。私は彼に包帯を当てるふりをしたが、もちろん応急手当はまるで小さ過ぎて、空洞を覆う足しに全くならなかった。彼は『やられた、もう駄目です閣下!』と言い続けつつ、私が万が一打ち消すのを期待していた。私はそうして、何でもない、と彼に伝えた。――しかし彼の眼は既に生気を失い始め、彼に死が迫っていたことはその時でさえ明らかだった。彼は何度も咳をしようとしたが、もちろん彼の脇腹から空気が出るだけだった。彼は私に、なぜ咳ができないのでしょう?と尋ね続けた。
彼は私に母親の住所を渡して、私は書くと約束した。爆撃は静まりつつあったので、私はもう一人の機関手に、彼を応急手当所に連れて行かせた。彼は支えられて本当にそこで歩いて、死ぬ前に手当所に着いた。この出来事はハウザーと私をひどく動転させ、吐き気を催させた。(・・・)」
続いて彼は、「私に大きな影響があった」ので詳しく書いたと述べている。それは本当は、そういった言葉で尽くせる性質のものではなかった。彼は日誌の中で、執筆しながら悪夢を繰り返し見ていると告白する。その夢で彼は、激流に流されまいとぬかるんだ川岸を伝い歩く。が、足を滑らせて倒れ、泥に爪を立てようとする。しかし疲れてしまい、更に滑っていく。下手では、怒濤のような奔流が彼を待っている・・・夢はつねに破綻で終わり、覚醒によってそこからようやく解放されるが、夢作業は行なわれず、また同じ場所で同じことが繰り返された。夢の象徴機能は麻痺し、咀嚼し難い事実が圧倒的な感覚印象とともに現れている。それは実際にステインベックでの、多くのイギリス兵たちの経験だった。これは典型的な外傷夢で、ビオンは従軍した他の多くの若者と同じく、戦争神経症を患っていたのだった。それはカーディナー16)が指摘しているようにほとんど生理的な失調状態で、過覚醒と鈍麻の共存はのちのPTSD概念にも採用された徴候である。カーディナーは、外傷への固着・典型的な夢生活(乏しい象徴性・破綻による覚醒・その反復)・易刺激性・パターン化した驚愕・爆発的攻撃反応への傾性に加えて、機能の一般的水準の縮小を指摘している。これは、アメリカが1917年4月に参戦した以後、前線から送り返されたアメリカ軍兵士の観察に基づく。彼らは既に、慢性期に入っていた。そこにあるのは通常の神経症が持つ心的内容相互の葛藤状態ではなく、強いて言えば意味と無意味の間の葛藤で、それも葛藤と言うより、圧倒的恐怖と無意味さの侵食による無力感との戦いだった。
ビオンも戦後、社会的適応の困難をいくつかの場面で示した。同僚・部下が間近で悲惨な死を次々に迎えたこと、同じく自分の生命も危うかったことは、PTSD発症に十分な状況因である。しかし、なぜこの場面が特に外傷的だったのか、少なくとも強い印象を与えたのだろうか。もう一つの因子が、数十年を経て浮かび上がる。
2.61才時の記述11):
「ビオンは耳を傾けてスウィーティングの動いている口唇に可能な限り近づけると、彼の言っていることが聞こえた。『なぜ私は咳が、咳ができないんでしょうか、閣下?どうしたんでしょう、閣下?どうかしたんです』。ビオンは向きを変えて、スウィーティングの脇腹を調べた。そして、彼の左腹があるべきところから、湯気が吹き出ているのを見た。砲弾の破片が、彼の胸の左壁を裂き取ったのだった。そこに肺は残っていなかった。(・・・)
『お母さん、お母さん、私の母に書いてください閣下、書いてくれますね?住所を覚えてくれますね?ハリファックス町のキンバリー道路22です。私の母に書いてください、ハリファックス町キンバリー道路22です。お母さん、お母さん、お母さん・・・』
『ああ、頼むから黙ってくれ』とビオンは叫んだ。彼は不快で、怯えていた。
『母に書いてください閣下、私の母に書いてくれますね?』
『ああ、頼むから、黙れ』
『書いてください、お母さんに、お母さん、お母さん。なぜ咳ができないんでしょう、閣下?』湯気が、彼の壊れた横腹から吹き出し続けていた。『なぜ咳ができないんです?母に書いてくれますか?閣下・・・』彼の声は弱り始めた。『お母さんに書いてください。お母さん、お母さん・・・』
彼はビオンの腕の中に弱々しく倒れた。もはや爆裂跡に自分を押し込もうとはしていなかった。死人のように白い彼の顔は、空を向いていた。霧が彼らの周りを相変わらず渦巻いていた。刻々と彼らは炸裂する砲弾から降り注ぐ、赤く熱い鋼の明るい閃光に被われているようだった。
こんな爆撃は今まで経験したことがない――お母さん、お母さん、お母さん、という――こんな爆撃は決して、と彼は思った。私は彼に黙って欲しい。彼に死んで欲しい。なぜ彼は死ねないのか?もちろん、脇腹にあんな大きな穴を開けられて、彼は生き続けることはできない」。(「アミアン」1958)
ビオンにとって耐え難かったのは、一つには、瀕死の状態で母親への強烈な愛着を示され、それを彼が、上官=親的対象として受け止めなければならなかったことではなかっただろうか。従軍中、一度も親に連絡を取らなかった彼が。文字通り命懸けで投げ掛けられた、死の恐怖と生への愛惜の情を。そのような包容力を持った母親を内的に持ち合わせていなければ、彼にできるのは形式に則った対応のみである。任務dutyに、従順にdutifully。それにしても若い兵士の応答の要求は、法外で不可能に感じられ、迫害的にしか経験されなかっただろう。そのような要求に応えられるのは、生命を与える万能的な母親のみであり、それを素朴に信じて語り掛ける若者兵士は目障りな、憎しみと羨望の対象である。
そしてもう一つに、死の真際でのこの呼び掛けは、ビオンができないで来たことではなかっただろうか。彼にとって母親を求める気持ちを表すことはもちろん、それを感じることも困難になってから久しかった可能性がある。脇腹の「大きな穴」、胸の空洞は、彼のものだった。それは埋め難いものとして見せつけられ、吐露は死んでいく。「そしてそのとき、彼は死んだと私は思う。いやおそらく、それは単に私だった」。彼の心に残ったのは、すべきことを忠実に果たすが情動的に応えない母親と、その傍らに置かれた乳児のようなものだった。愛着を求める部分は、ただ麻痺したのではなく、嫌悪され積極的に破壊される対象となった。そして死者は本当の意味では死なず、埋葬されない死体のように取り憑いて迫害し続けた。しかし母親との関係を始めとして、こうしたことが意識野に入り始めるには数十年の時間的な隔たりと、その間の十数年に及ぶ精神療法・精神分析の経験を要した。
実際、彼が示した社会的不適応の最たるものは、女性と親密な関係を築けなかったことである。大学卒業後、ビオンは教職に就いた。彼は男子生徒の一人に魅力的な母親か姉がいると想像して、会うことを示唆した。すると痩せた背の高い大柄で敵意に満ちた女がやって来て校長に訴え、彼は辞職せざるをえないことになった。医学課程に入り直した彼は30才頃、野薔薇を送ってきた「非常に美しい」女性に魅了されて結婚を申し込み、一度は受け入れられるが、数週間後、婚約破棄された。これもまた大きな痛手で、12回で終わるはずだったハドフィールドとの最初の精神療法は7・8年続いた。
ビオンの記述は、数十年の時間を挟んで僅かな変化で、経験の咀嚼はゆっくりとしか起こっていない。それでも、ビオンの「愛することと働くこと」の能力がそれに応じて回復していったことは、その後の経過を通じて明らかであろう。彼は1950年代半ばから、精神病の精神分析臨床から得た知見を発表し始めた。そして1957年には、「正常な投影同一化」とその拒絶が生む帰結についての重要な論文「結合への攻撃」2)を発表した(論文化は1959年)。同じ時期、彼は研究ノート10)を付けている。そして60年代には、『経験から学ぶこと』に端を発する一連のメタ心理学的考察を公刊する。
これらの間に第一次世界大戦の戦地アミアンが実際にも(1958)、執筆を通じて内的にも再訪された。戦場の追体験は、彼の理論形成とは何の関係もないだろうか?既に見た範囲からでも、彼の経験と諸概念との対応は、見逃すことができないだろう。彼は統合失調症の臨床において夢作業の回復を経験して、そこから「アルファ機能」「ベータ要素」そして「アルファ要素」と概念化し、ベータ要素を未だ心的世界で表象されえない「感覚印象」としたが、それは認識論的な不可知性を説いたものではない。ベータ要素はむしろ、無媒介で心の世界に侵入し強烈な感覚印象のまま“消化”され難い、経験の衝撃である。だからフラッシュバックの方がより近いモデルであり、それこそ彼が経験していたことだった。そう見ると、「夢見ることも覚醒することもできない」状態は、無意識が機能しなくなった外傷夢の世界でもある。彼が適切な抑圧を可能にする「接触防壁」の意義を強調したのも、了解しやすいことである。ではそのことと精神病の世界は、圧倒的恐怖と無意味さ(nameless dread)・無力感・迫害経験は、どのように切り結ぶのだろうか。どちらも心理的危機と、ビオンの言葉で言えば「心的装置」の破壊をもたらすが、外傷の力を欲動の破壊性とはどうつながるのだろうか。それを論じる前に、自伝的理解の進展と限界を確認しよう。そのためには、未定稿「アミアン」から更に十数年後に彼が発表の意図を持って推敲した自伝的著述『長い週末』を参照する必要があるが、ここでは要点のみを述べる。
経験から60年後の記述には、「そのとき私が死んだのだ」という認識が加わったとともに、スィーティングSweetingの母親に実際に手紙を書く場面が描写される(註1)。彼は、スィーティングの母親がどんな人だろうかと想像をし始める。最初、「かなり感じ良い女性に違いない」と思うが、すぐに違うイメージが重なり始める。何年も前に、彼を嘲り罵った「淫売」が現れる。息子を亡くして嘆き悲しみ、怒りに満ちた母親を想像したのだろうか?それにしては、なぜ「母親」と対極の「淫売」が現れてくるのだろうか。同僚に声を掛けられ、彼は白昼夢状態から抜け出して、任務dutyとして形式に則った追悼の手紙を何とか書く。その間にも、(お母さん、お母さん、お母さん)という“爆撃”は彼の心の中で響き続ける。「非常に良い母親」と「売春婦」は、奇妙に交錯する。女性像が良い女性と悪い女性に分裂して、愛情深い母親は死んでいった兵士のものとなり、ビオンには後者しか残っていないかのようである。絶対の受容を求めたこの叫びには、理想的な母親との甘美なsweet関係に映る一面がある。しかしそれは決して現実化されないし、息子を守らなかった/見捨てた悪い面が否認されている。若者が異国の地で結局犬死にしたことは、母親との良い関係から最も遠く、翻弄する売春婦との関係の方がふさわしくさえ思われる。母なる国イングランドは、息子を英雄空想で誘惑して戦場に送り込んだ淫売なのである。兵士は亡霊と化して、失われた(お母さん)を求めて彷徨う(8)「戦争」36−38)。
このように分裂した女性像の由来を辿るのならば、母親との早期母子関係に立ち返るのが精神分析の常である。ビオンの母親に関連して自伝からよく引用されるのは、母親には「奇妙な感じがあって、膝の上に乗せてもらうと暖かくて安全で心地よかったのが、突然、冷たくて恐がらせるものとなった」という一節である。彼はそれを、冷たい隙間風が入ってくるようだったと形容している。ただ、これは二面性や分裂のようでも、もう少し複雑である。母親が「あの子はまだ4才なのに・・・」と既にイギリス行きを案じて嘆くのをビオンは聞いており、母親に情がないのではない。しかし彼が「お母さん、何か悲しんでるんじゃない?」と尋ねると、母親は必ず否定した(8)「インド」5)。彼の傑作な失敗に、怒りを通り越して笑っているはずだと彼が感じても、母親はそれを認めなかった。父親は更に形式的で情動的接触が困難な人物とされている。ビオンの生真面目さ・不器用さと相俟って、両親とは情緒的なつながりを保ちにくい関係となっていたのだろう。第一次世界大戦の外傷は、そこに不可逆的な打撃を与えたようである。彼のインド再訪は、急性白血病の発症によって夢と終わった。
4.その後の戦い
彼の第一次世界大戦での経験とその余波は、彼が現役で仕事を発表している時には、必ずしも知られていなかった。しかし今から振り返ると、それが基調音の一つであることが分かる。もはや紙幅がないので、以下では項目を述べるに留めておく。
(1)精神病との戦い
彼は1950年代終わりには、自分自身の心的外傷を描写することから、精神病の精神分析的な理論的解明へと移行した。外傷の記述がつねに断片的叙述で終わるしかないのに対して、理論は事態を包括的に捉えて、治療の可能性を提供しようとする。ビオンは精神病の中核的な情動経験に「名状し難い恐ろしさnameless dread」を据えた時点で、戦場での圧倒的恐怖と無意味さ・迫害と孤立をも、視野に入れていたことだろう。但しそれは意識的なものではなく、徐々に接近していったのではないかと思われる。その一つの頂点が『結合への攻撃』2)での以下の分析である。この論文で彼は、結合への破壊的攻撃を示した六つの臨床場面vignetteを提示してから、「好奇心・傲慢さ・愚かしさ」という題の一節をわざわざ――と言うのはその三つに少しも触れないのに――挟んで、「標準程度の投影同一化の否認」を論じる。そこで彼は、患者には「自分の死の恐怖が分析者の心にしばらく留まることを許容されたならば、それらは修正され安全に再び取り入れできるようになるだろう」という考えがあったのに、分析者がその投影同一化を性急に排出して事態を悪化させたのだろう、と考察する。その意味で、文脈を無視すれば患者の一次的攻撃性に見えるものは、分析者の防衛的態度の産物である。それから彼は、「極めて早期の場面」を思い浮かべる:
「[・・・]私は、患者が乳児期に、乳児が表す情動に対して従順にdutifully反応する母親を経験していたと感じた。従順な[任務dutyを遂行する]反応の中には、気短な「子供に何が問題なのか私には分からない」という要素があった。私の推理では、子供が何を欲しているかを理解するためには、母親は乳児の泣き声を、彼女に側にいて欲しいと要求している以上のものとして扱うべきだった。乳児の観点からは、母親は子供の死にそうな恐れを自分の中に取り入れて、それを経験するべきだった。子供が包容できなかったのは、この恐怖だった。[・・・]」2)
これに続いてビオンはまた、「患者の障害の・・・主要な原因は・・・乳幼児の生得的な素因に見出される」へと戻る。この蛇行は、生得的素因か環境因かに関して、後者ばかりを強調するわけにはいかなかったからだろう。しかしクライン派論文としての画期性は、明らかに後者の発見にある(註2)。主因が生得的であったとしても、母親のありよう次第で経過と予後が大きく左右されるならば、外傷か破壊的欲動かは棚上げにした介入論として、或る程度まで意味がある。彼は、治療において自分がこのような母親だったのではないかと振り返る。――少なくともアミアンでは、彼はそういう上官だったことだろう。今や彼は理解とともに、こう書く:「分析の間一貫して患者は、彼には一度も十分に利用できなかった機制であることを示唆する執拗さで、投影同一化に訴えた。分析は、彼が騙し取られてきた機制を行使する機会を彼に与えた」。――同じく分析はビオンに、彼が行使できないできた情動との接触と包容の機会を、或る程度まで与えたのではないだろうか。
(2)万能感との戦い
「或る程度まで」とは、やはり素因に分類された部分の究明が更に必要であり、実際に続けられたからである。その道の一つは、「好奇心」「傲慢さ」「愚かしさ」から見たオイディプス神話の再解釈である。もう一つは、晩年にセミナーの中で時折言及した『アエネーイス』の再読である。いずれも、自我の万能感の問題に関連している。
オイディプス神話にはさまざまな読解があるが、フロイトがそこに読み込んだのは、両親と息子の間の愛憎関係である。それは対人関係のドラマであり、欲動を制御するエディプス・コンプレックスの、パーソナリティ構造への内在化を説く寓話である。登場人物あるいは対象と自己は、愛情(L: love)または憎悪(H: hate)によって結ばれている。それに代わってビオンが注目するのは、クラインも示唆していた、知ること(K: knowing)を通じた対象との関わりすなわちK結合である5)。
K結合が対象関係論において重要となったことには、二重の必然性がある。一つには、重篤な精神病理を有する患者が精神分析の対象となるにつれて、愛憎を保持して葛藤を経験する全体対象関係ではなく、分裂した自己・対象間の部分対象関係が問題となり、内的/外的現実を歪曲なく知ることが大きな課題となったからである。洞察は、分裂/分離された諸部分がK結合を通じて、理解を生み出すことを意味するようになった。もう一つには、やはり重篤な障害において一見逆説的に、<知らないでいること>、それに耐えることの意義が、知られるようになったからである。自分が知らないでいることがあるとは、自分が排除されている関係があるということである。その原型は両親の間の関係である。すべてを知っていようとすることは、母親からの分離を否認して父親=第三者の介入を排除しようとすることを意味する。そうした自己愛的状態は、当然ながら実際には維持できないし、現実の深さを知っていく上で著しい妨げとなる。自分を除く対象間の結合を許容することによってこそ、実物を支配できないにしてもその結びつきについての象徴化された理解を手にすることを通じて、自己の世界を豊かなものにすることができるようになる。知らないという欲求不満に耐えて、心をつねに既知で充満させないことが、心の強さであり、成長・発達の鍵である。
それに対して、すべてを知ろうとする全知omniscience・万能性omnipotenceは、その対極である関係から締め出された状態を、破局として恐れている。オイディプスは、そのように潜在的な自分の不安すら知らずに万能感に突き動かされて、預言者の警告に逆らって探究を続けた。では、知ろうとすることが端的に悪なのだろうか。ビオンは説明なく、「好奇心・傲慢さ・愚かさ」をパーソナリティの精神病的部分の三徴とする。自己中心的で本来感じるべき不安から切り離されている点は、これらによって描写されてはいるが、一般的な心理と掛け離れた特徴があるとは言い難い。現代クライン派の誰に尋ねても、どうしてこの三点が選ばれたのかは分からないという返事が返ってくる。オイディプスの愚かさを言うならば、激情に駆られて父親を殺したこと、それを忘却したこと、相手が息子だと気づかないはずがない母親と共謀したことなど、好奇心が探究を始める前からある。この選択に感じられるのは、「なぜ戦争に志願したのか?」というビオンの自問である。それはまさに、好奇心・傲慢さ・愚かさから、としか言えないのだろう。
戦争に関連して、彼は晩年にはウェルギリウスの『アエネーイス』17)を素材とした。しかし彼の取り上げ方は、特異的である。と言うのは、主題としてアエネーアースというローマ建国の英雄を避けて、パリヌールスを選んでいるからである。アエネーアースは、ギリシャ軍との戦闘の間に妻を失い、父・子と残される。これは第二次大戦の時にビオンが経験したことに酷似している。彼は第一次世界大戦の軍事的功績から、受勲されたこともある。にもかかわらず、彼は自分が英雄ではないと強く意識していた。パリヌールスはアエネーアースの友人で、有能な舵手だったが、艦隊を難破させようとする敵対側の神の謀略によって睡魔に襲われ、船尾・舵の一部とともに海に落ちる。彼の失踪を知ったアエネーアースは、彼が海の静けさに惑わされたのだろう、と想像する。この物語を詳しく検討する余裕はないが、ここには、先のオイディプス読解の変奏として理解できるものがある。それは、神に挑戦する愚かさという点である。だがそこに任務あるいは集団規範への忠実さが絡んでいるので、一層複雑である。パリヌールスは一方では、己の技術・判断と道具を過信して、神意を前にしたそれらの限界を感知しなかったが、もう一方では、あくまで持ち場を離れなかったことが、命取りとなっている。しかも警戒心があったからこそ、つまり職務熱心だったからこそ起きたことなのに、アエネーアースには逆と誤解される。
ビオンがこの逸話を通じて、本質を追求する精神分析者が陥りやすい局面を述べようとしたようである。真の危険を察知しない探究は盲目的であり、内的真実の追求は常識からの誤解を受けやすい、というように。ただ、ここに彼の戦車体験の反響を、見ないようにする方が困難である。彼は自分が率いる小隊の安全のために、敢えて戦車を乗り捨てたことがあった。武器の限界を知り適切な状況判断をすることは重要で、それが彼の身を助けた。しかしこれは戦闘放棄や敵前逃亡とも紛れかねない行為である。降伏できるのにしないで射殺された同僚がいるとき、どちらの選択にも割り切れないものが残ったことだろう。探究と罪悪感に関しては、彼はウルの発掘を例にして、盗掘者が最初の科学者なのか、科学者は盗掘者なのか、という二重性を示唆している。常軌を超えた経験は、決して消えず、一定の意味へと穏やかに収まっていかないもののようである。
5.終わりに
このように晩年に近づくにつれて、ビオンの関心は「K→O(究極的現実)」という過程に移り、それとともに医学も精神分析も一パースペクティヴとして相対化されていった。そして「O→K」に還る道として、神話・夢思考・叙事詩へと訴えられた。人生の出来事の解体=構成を目指したと思われる『未来の回想』三部作は、「知恵か忘却か。好きに選ぶがよい。その戦いからの放免はないno release from that warfare」という謎めいた言葉で終わる。その後半部は、『旧約聖書』「伝道の書」からの引用である。戦いとは運命とのそれであり、死という「奪い取る時」を前にして、何も確実なものも残るものもない。ユダヤ賢者たちによる箴言(K)も、この点では無力である。「伝道の書」のコヘレトはそこから、「時と偶然は打ちのめすことがあるのみならず、恩恵を与えることもある」と転じる。その都度の自分の分け前に自覚的になることが、信仰に通じる。心的外傷は、忘却されることも知恵に収まることも許容しないようだが、精神分析を選択した時点でビオンは後者の、極めてユダヤ的な哲学を選択していたのであろう。
文 献
1) Bion WR: The Differentiation of the Psychotic from the non-Psychotic Personalities. IJP 38: 266-275, 1957.
2) Bion WR: Attacks on Linking. IJP 40: 308-315, 1959.
3) Bion WR: Experiences in Groups and Other Papers. London, Tavistock Publications, 1961.
4) Bion WR: Learning from Experience. London, Heinemann, 1962.福本修訳:精神分析の方法T、法政大学出版局、1999.
5) Bion WR: Elements of Psycho-Analysis.. London, Heinemann, 1963.福本修訳:精神分析の方法T、法政大学出版局、1999.
6) Bion WR: Attention and Interpretation. London, Tavistock Publications, 1970.
7) Bion WR: A Memoir of the Future, Book 2 The Past Presented. Rio de Janeiro: Imago Editora, 1977. Reprinted in one volume with Books 1 and 3 and ‘The Key’, London, Karnac Books, 1991.
8) Bion WR: The Long Weekend: 1897-1919 (Part of a Life). Abingdon, Fleetwood Press, 1982.
9) Bion WR: All My Sins Remembered (Another part of a Life) and The Other Side of Genius: Family Letters. Abingdon, Fleetwood Press, 1985.
10) Bion WR: Cogitations. London, Karnac Books, 1992.
11) Bion WR: War Memoirs 1917 − 1919. London, Karnac Books, 1997.
12) Bion WR: The Tavistock Seminars. London, Karnac Books, 2005.
13) Freud S: Project for a Scientific Psychology. S.E.1, 1895.
14) 福本修:心的外傷の行方。森茂起編『埋葬と亡霊』、人文書院、2005.
15) Jacobus, M: The Poetics of Psychoanalysis. In the Wake of Klein. Oxford, Oxford UP, 2005.
16) Kardiner A: War Stress and Neurotic Illness, 1947.中井久夫・加藤寛訳『戦争ストレスと神経症』、みすず書房、2004.
17) Vergil: The Aeneid.泉井久之助訳『アエネーイス』、岩波書店、1997.
(註1)80才頃の記述を引用しておくと:
「私は突然、スウィーティングを思い出した。私は書いていなかった――もちろん私はそんな約束はしなかった。『閣下、私の母に書いてくれますね?』私は自分の袖で、彼の額の汗を拭った。『お母さん、お母さん、お母さん・・・』彼の心は虚ろに動いていた、やれやれだ。
そして私は誰宛に書いていることになっているのだろうか?かなり感じ良い女性に違いない、と私は思った。そう、だが、もしも彼女が、私の丸顔に怒りで目を剥いて「何だって言うんだい!」と言った、あの太った例の(old)淫売だったら。あの日ウォーバーンプレースで、何年も何年も前のことだ・・・
『終わったかい?』またクックだった。『困ったもんだな、何やってたんだい?』私は彼に、すぐ済むからと言って猛烈な勢いで殴り書きした。
『英雄と入場曲/売春婦(Hero and strumpet voluntary)――彼は最も優れた者の一人で』(お母さん、お母さん、お母さん)『つねに信頼されるに足りました』(お母さん、お母さん、お母さん)『われわれは彼を忘れないでしょう』合唱:(どの手紙にも)『さいわい彼は即死し、苦痛を味わうことはありえませんでした』[・・]
『拝啓、御子息の死について、これまで書くことができず申し訳なく存じます。彼は好青年でした。あなたは彼にとって非常に良い母親だったに違いありません。私は彼が、自分に近づく死を知っている最期に立ち会いました。あなたがその最後の時間に彼の心にあった人で、彼が口にしたのはあなたのお名前です。彼があなたをそれほど愛したことを誇りに感じられることを願います。私はその日、彼の上官でした・・・』」(同36)
「[・・]もちろんすべては昨日の午後4時半のことだ。今日の4時半、私はトルコ風呂に入って、とてもくつろいでいた。
『お母さん、お母さん・・・私の母に書いてくれますね、閣下?違いますか?』
『いや、畜生、書くものか!黙れ!私が邪魔されたくないのが、分からないのか?』こういう古い幽霊たちは、決して死なない。彼らは立ち去りさえせず、驚くほど若さを保つ。もちろん、玉の汗が、まだ新鮮ではっきりとしていて、眉毛の蒼白を背にしているのを見ることさえできる。どうやってそうなるのだろうか?ルドゥテが描くバラの花弁の上にある滴のようだ。素晴らしいではないか。その通り、その通り・・・死人のようではないか。だがもちろんそれは、ただの見せ掛けだ。彼は本当は死んでいない、そうだろう?お願いだ、お願いだから黙ってくれ。書くから。本当に書く。母なるイングランドへ――あの忌々しい淫売に!」(同38)
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(註2)「諸帰結」には、以下のようにある:
「[・・・]投影同一化によって彼は、彼の諸感情を包容するのに十分強力なパーソナリティの中でそれらを探究することができるようになる。この機制の使用が、乳幼児の感情を貯えておく役をすることの母親による拒絶か、母親がこの機能を働かせるのを許容できない患者の憎悪と羨望によって拒まれると、乳幼児と乳房の間の結合の破壊に通じ、その結果としてあらゆる学習が依拠する、好奇心を持つ衝動の重篤な障害へと通じる。よって、発達の重篤な停滞への道が準備される。さらには、乳幼児は自分の強力すぎる情動を扱うのに与えられた主たる方法が拒まれるために、情動的生活の管理は、いずれにせよ厳しい問題だが、耐え難いものとなる。その結果憎悪の感情が、憎悪自体を含むあらゆる情動に対して、そしてそれらを刺激する外的現実に対して、向けられる。情動の憎悪から生自体の憎悪までは、僅かな距離である」。
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