分裂病の治療に占める精神療法の今日的な位置 (イマーゴ92-1)
−−M.セルツァー、T.サリヴァン、M.カールスキー、K.ターケルセン
『精神分裂病障害を持つ人々への働きかけ:治療同盟について』−−
福本 修
今日精神科医が精神分裂病と診断した患者に対して、言語的な交流(精神療法)のみに基づく治療計画を第一選択として立てることはありえない。それは医療経済的に無理だからばかりでなく、効果が明確に期待される薬物療法を無視することは倫理的に許されないからである。
しかし抗精神病薬以前には有効な身体治療や生物学的病因モデルは存在しなかった。そのような状況の中で、少数の者による実験的な試みによって心理的側面の理解が積み重ねられ、対人交流を通じて分裂病の治療がなされた。1920年代から1940年代の仕事についてここで繰り返せないので、例えば小川・牧原による総説(『精神医学体系』中山書店所収)を参照されたい。その後なされてきた対人関係論から英国流精神分析まで、理解とアプローチはそれぞれかなり異なる。だが共通する難点があったように思われる。
精神療法一般に共通する実証性の問題は措いても、神経症の治療に比して時間と人手が膨大に掛かる。また治療者の個人的特性が大きく関与してくるので、知識の伝達が難しい。その設定を支える有形無形のもの(病院の物理的構造、医者看護者数、ミーティング、スーパーヴィジョン..)は見落とされやすい。
典型として、フロム-ライヒマンの考えを見てみよう(『人間関係の病理学』黎明書房)。彼女によれば、分裂病は乳幼児期の外傷(cf.「分裂病を作る母親」)に由来し、病気というより人格の特殊な状態である。蝋屈症や昏迷、拒絶症を含むあらゆる症状は無意識的起源を持つ。治療者は病者の退行と転移を読み取り、よりよい現実への橋渡しの役を果たす。この作業に困難があるとしたら、それは治療者としての基本的態度をどこまでとることができるかという医師のパーソナリティの問題である。この観点を治療者の個人的努力で維持しようとすると、並外れた共感力・理解力と忍耐力、心の安定が要求されるだろう。彼女は治療者の特性に注意を払っているが、向かない者が行なおうとすれば万能感に捉えられるか絶望するかになりかねない。
しかし実際にはフロム-ライヒマンは単に患者を共感で満たそうとしているのではなく、患者の人格の大人の部分に語りかけ、自分の行動に自己責任を持つように約束を結んで治療を進めている。だから治療同盟や契約によって二者関係の中に法の次元を導入しているのである。論文は治療全体を再現するマニュアルとしては不十分である。
時代は流れ40年が経た。成果が発表された50年代60年代から、力動的精神療法の関心が人格障害へと移動しさらには衰退した70年代80年代へと推移し、まず第一に、病理-治療モデルそのものが修正された。第二に課題が変わり、今また分裂病の精神療法への関心が見えつつある。
"Working with the Person with Schizophrenia"(M.Seltzer et al.New York Univ.,1989)は、コーネル大学ニューヨーク・ウェストチェスター病院のセルツァーらがこの10年間の慢性分裂病患者を治療した経験をまとめた本である。そこには薬理学や大脳科学の知見が大幅に取り入れられ、もはや全ての症状を特に幻聴や妄想知覚、衝動性を力動的に解釈する意図はない。精神療法の焦点とするのは疾患に対する二次的な心理的反応である。だから大まかに言うと、治療モデルは、障害受容の過程に近くなる。そこに精神病特有の防衛的な歪曲と生活史上の課題の解決が加わる。
彼らは生物学的モデルと折り合うことを認めるが、その限界も指摘する。それは薬物療法にも社会的な支援にも反応しない多くの慢性患者には無力である。治療の軌道に乗らない患者の状態が生物学的に"陰性症状"として規定されているとする見方には、著者たちは挑戦する。彼らはそこに、自己評価や自己愛の傷つきへの恐れを見る。慢性患者が対人接触を避けたり、非現実的な計画や妄想に固執したり、怒りや誇大性を示したりするのは、そのような恐れを抱いており理想的自己の喪失に耐えられないからである。症状が容易に消失しないのは、それが過剰な自己非難傾向という心理に由来するためであることがある。言い換えれば、症状は元来無意味なのに患者が不適応を招く余分な解釈をしていることになる。
患者の尊厳を保ちつつ治療に入るには、まず彼らの主観的経験に即して理解することから始めなければならない。そして患者がより積極的に治療に参加し、障害があってもより適応的に生きていけることを目指す。
これらのことを、特殊な人間にしか不可能な精神療法的接近ではなく、特に治療同盟(alliance)の形成に絞った実践的なマニュアルとして書いている。本書は他に、初回面接、入院中の問題患者、行動化の激しい外来患者、無為自閉的な外来患者を例に挙げて、理解と技法を詳述している。
マニュアルと言っても、その著者は全く凡庸ならざる人物である。私は数年前セルツァーが来日したとき、日本人の女性分裂病患者に面接するのを見たことがある。それは面接目的の明確化に始まり、患者が言葉に詰まって頭を叩く動作から接触の回避と攻撃性・罪悪感の問題を扱い、最後には家族喪失の主題にまで及んだ。「性的に悪いことを考えたり誰かのことを悪く思うと考えがつながらない..」と語る患者に彼が「私は精神科医として、『悪い考え』というものはないと考えている」と言うと、患者は妄想的内容を含めて積極的に話し始めた。更に患者がその面接を家族療法に見立てて看護婦やケースワーカーが家族に似ているからといったのを取り上げ、「家族がいないのに慣れることができる人は誰もいません、あなたは悲しいということを話したくないのでしょう」と返すと、面接室の中には沈鬱な空気が流れた。
他にも一時間の間に実に多くのことが起きたが、時間が来て面接は終わった。スタッフは患者がこれほど情緒を込めて語ることができると思っていなかったので、意外に感じるとともに深い感銘を受けた。患者はビデオ録画を使いたいというセルツァーの申し出を断わるほど強さが表に出るようになっていた。
セルツァー自身も初めての経験だったので少し興奮していたようだが、一息つくとボードで面接経過を振り返った。彼は技法について、"Pararell play"(患者と同じ動作をしてみせる)"Keep focusing on the relationship""Clarify non-judgemental attitude""Clarify Boundary between Pt and Th"などと書いた。私は元レーサーの勘の冴えと勇敢な関わりを裏打ちする技法化への意志に、改めて感心した。そのときからこの本を待っていたが、パイオニアの驚嘆すべき鋭さと繊細さは分かりやすさと具体的工夫に置き換えられている。細部については各自が読まれて役立てられることを希望する。
本書には今日の課題が明快に書かれており、翻訳がまだ企画されていないなら、或いは既に進行しているのなら、是非早急に日本語で読めるようになるべき本である。
|